AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

慰霊と研究の両立という世論作り?―アイヌの遺骨をめぐって

 ある方から北海道新聞の切り抜き記事を送って戴いた。電子ファイル化して送って戴いたから、そのままここに掲載できれば簡単なのだが、著作権の問題があるからやめておく。記事の批判もその方の方がよっぽど専門的に行うことができると思うのだが、わが輩もちょっとコメントしてみたくなった。

 その記事というのは、今月16日付けの夕刊に掲載されている(電子版では読めないそうである)「編集委員報告」というコラムの小坂洋右「先住民族の人骨 研究か 返還か」と題された記事である。小坂洋右さんと言えば、『流亡』という著書があり、アイヌ民族の関心事には精通された記者(編集委員?)のようである。その方の書いた記事ということを聞いたので、わが輩は、読みたいという期待を胸にその記事を送ってもらったのだった。でも、読んでみて、率直に言って、がっかりした。

 記事の右半分に「法制化で"先祖"保護 米国」、左側に「日本 学会が保管数把握へ」という日米の現状を並べて紹介する記事である。新聞の一つの記事という限られたスペースの制約の中で大きな問題を扱わねばならない難しさはあると思うが、しかし、その内容といい、タイミングといい、非常に気にかかる。

 「米国」部分では、このブログでも何度か言及したことのあるNAGPRAが紹介されている。内容的には、Wikipediaや他のネット上の情報で十分に把握できる程度以下のもの。(当事者の中にはまだまだインターネットにアクセスできない人もいるが、だからこそそれ故に、紹介されている内容が重要となる。)そして、この種の記事のお決まりとして、大学の研究者、今回はモンタナ大学の研究者(瀬口典子准教授)の言を引いてきて、(恐らく自分の)主張を提示するもの。どうせモンタナならば、モンタナ州に本部があり、"2010 Gruber Justice Prize"を受賞したインディアン法資源センターの見解くらい載せて欲しいものだとも思う。いずれにしても、ここで言いたいのは、NAGPRAの法制化とそれに基づく制度の構築によって先住民族と研究者「双方の溝が埋まったのは確か」という評価なのだろう。

 これに対比する形の「日本」の部分では、「近年」の「DNA研究が著しい成果を上げている」などの「研究成果」に力点が置かれ、「今後も研究させていただければ」という、研究者の見解が多くの行を占めている。そして、現在進行中のアイヌ政策推進会議での「『アイヌ民族の遺骨の慰霊施設を核とした民族共生の象徴空間』に向けても検討が避けられない」とだけ、自身の「意見」を述べた上で、最後にまた、瀬口准教授の言葉と、長年にわたって遺骨問題を追及してきたアイヌ小川隆吉さんの言葉が並べて引用されている。この記事を読めない方のために、(長くはしたくないのだが)引用する。

 瀬口准教授:「米国と同じやり方をする必要はない。返還の求めがあるものは返し、承諾が得られれば1カ所に集めてきちんと保管し、いつでも慰霊でき、研究もできる形が望ましいのではないか」。
 小川さん:「人類学会の把握調査には副葬品も含めてもらいたい。過去をきちんと反省した上で研究してほしい」。

 お二方とも、もっと多くのことを語っていると思うから、ここで引かれた言葉だけを論うのはフェアではないだろうし、少なくとも、小川さんについては、もっともっとたくさんのことを言っているというのは想像に難くない。大体、この種の引用というのは、わが輩も経験があるが、2時間くらい取材されて話をしても、テレビニュースには秒単位、新聞記事には一桁程度の行数にまとめられてしまう。「編集委員報告」であれば、ジャーナリズムの立場からの、もっと率直な見解を出して欲しかった。「返還か 研究か」という自らの問いに、メディア独特の「バランス」を取るが如くに「両立」を「落としどころ」として纏めたかったのかもしれないが、こと「日本」の部分の文章に限っては、「研究」に大きく傾いているとしか読めない気がする。

 「アイヌ政策推進会議ではこういう流れになっていますよ」と警鐘をならす意図があるのかなとも考えたかったが、こうして見て来ると、どうもこれはまた、アイヌ政策推進会議の主流意見を社会に向けて流しているだけの記事ではないのかという気がしてくる。

 ここのところ、Science誌の特集を紹介したりして、気になっていた問題だけに、長くなってしまった。もっと長くなってしまうが、この機に、アイヌ政策推進会議の「民族共生の象徴となる空間」作業部会での発言をいくつか紹介しておこう。文字情報だけでは、発言時の流れや言外の意図が捉えにくいこともあるが、こんな発言もあるよ、ということで一部だけコピペする。他にも、まだたくさん「面白い」発言があるので、読者の皆さんの訪問を促したい。

第5回会合での発言:

・人骨は、可能であれば土に戻してほしいという気持ちであるが、ルーツ解明等のため調査する必要がある場合は、必要最小限を残すなどの方法が必要。アイヌ側が精神的に納得する落としどころとすることが「共生」ではないか。
(これは、アイヌの秋辺日出男さんの発言。)


○「慰霊の配慮」と同列で「人骨研究」を記載するのはどうか。先の有識者懇談会報告では、慰霊の配慮は、アイヌ民族の精神生活の尊重の象徴的な位置づけだったはず。慰霊の配慮のあり方を具体化していく中で人骨研究との関わりが出てくるということはあるとは思うが。
(どなたの発言かは分からないが、「慰霊の配慮」と「人骨研究」がごった煮にされているらしいという危惧が伝わってくる。)

 以上、( )内を除いて、こちらより⇒http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/shuchou-kukan/dai5/gijigaiyou.pdf

第6回会合での発言:

先住民族の人骨の慰霊と研究の両立は、世界では例がない取り組みであり、我が国では可能ではないか。慰霊が主であるが、人骨研究もアイヌにとって如何に重要であるかを時間をかけて説明していきたい。それまでの間、将来の研究の可能性を含め、一カ所できちんと管理していくことが重要。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/shuchou-kukan/dai6/gijigaiyou.pdf

 おー、なんと恐ろしきことを仰る!「世界では例がない取り組み」―これぞまさに「日本型先住民族政策」であろうか。仮に本当に「例がない」として、それはなぜなのか。なぜ「我が国では可能」なのか。
(注 2012/03/06:この発言は、研究者のものではないかもしれない。)
 恐らく、この研究者たちの脳は、わが輩などが想像もつかないほど特別に進化しているのではないかと思う。20世紀後半から21世紀にかけての人類、特に日本人の脳の進化の科学的解明の可能性に賭けて、彼らには死後、是非ともその頭蓋骨を後進の研究者に提供して戴き、後進の研究者たちは、適確な分析技術や方法論が確立するまで、頭蓋骨を札を付けてダンボールの箱に収めて、研究所の地下室にでも保管しておかれると、科学の進歩に貢献できるということで提供者たちは大変嬉しいのではないかと思う。

 上の北海道新聞記事が引用している瀬口准教授が、ご自身の著書(『バックラッシュ!〜なぜジェンダーフリーは叩かれたのか〜』、双風舎、2006年)のキャンペーンサイトで、次のような、大変興味深いことを述べている。

■科学は客観的か

 保守派は、ジェンダーのあり方までもが、生まれつきで、生物学的なものであり、その背景には科学的な根拠があると主張している。一方、遺伝学研究者たちにとっては、人間の形態や行動、能力が遺伝と環境の相互作用によって決まるというのは常識である。さらに保守派は、「科学」という言葉に絶対的な権威を与えている。科学的根拠という言葉を使えば、一般を説得することができるとして、利用しているのであろう。

 では、科学とは何か。科学とは、実験や観察にもとづく経験的実証性と、論理的推論にもとづき一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動であり、その結果としての体系的整合性をその特徴とする。科学的手法で導き出された説はもっとも論理的で、観察されたデータの客観的な解説がなされると、一般に思い込まれているようだ。しかし、じつはそうではない。科学的手法を使っても、かならずしも客観的で正しい結論を導くことができるとはいえないのだ。科学者も人間なのだから、科学にも多かれすくなかれ、直感や思い込み、その科学者の生まれ育った文化的背景など、主観が入っている可能性は高い。「科学もある時代のものの見方、考え方から自由ではありえない」のだ。ある現象を説明するために立てた仮説にも、最初の段階で主観が入っているかもしれないし、研究者が所有している測定器具、または実験装置にも違いがあるし、論理の組み立てにも飛躍があるかもしれない。つまり、科学は絶対に客観的だとは言い切れないのである。
http://d.hatena.ne.jp/Backlash/20060703/p1

 さて、本当に長くなってしまった。100本に到達する前に、趣向が変わってしまった感もなきにしもあらずだ。
 ところで、アメリカを例に引くならば、アメリカの「民主主義」は「手続き的民主主義」と言われ、司法の分野でもdue processという法の下での正当な手続きが非常に重視される。殺人のような重大な事件で、容疑者が明らかに犯人であったとしても、その証拠の収集が不当になされた場合、検察はその容疑者を有罪に持ち込めない。「証拠」が証拠として採用されないからである。「研究」を重んじる日本の主として一部の人類学者たちは、全国の大学や博物館に「保管」されているというアイヌ人骨(北大医学部だけで現在も1,000体近くあるという!)は、いかにしてそこに存在しているのか。その原点を何も問わずに研究によってもたらされる貢献、しかもその「可能性」のみを強調するのだろうか。不当に取得された「研究材料」から生み出される歴史的「事実」の「証拠」は、証拠として認められるものなのか。そこから得られる成果というのは、ナンボのものなのか。

 最後に、上記の部会の第4回会合では、こんな発言がなされている。

人骨問題は、アイヌが置かれている問題を全て集約していると言えるかもしれない。歴史的経緯を踏まえた問題をどう解決するかは、共生空間をどう作るかそのもの。将来へ向けてどういうスキームを作っていくか。教育が解決の一つの鍵になるのでは。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/shuchou-kukan/dai4/gijigaiyou.pdf

 赤字で強調した部分には◎を付けておこう。

転載元:http://ainupolicy.hateblo.jp/entry/20101025/1287938558

広告を非表示にする