AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

日本人医学者の「人体組織試料」採取方法

 台風の影響による風雨が少し弱まった昨夕、帰路にいつものブックオフにちょっとだけ立ち寄った。前に見ていたある本について店員さんに尋ねたいことがあって、いつもはあまり見ないジャンルの棚の前に行った。その本は売れていたようだったが、その横手に「日本史」の棚があり、10数冊の一般向けの本が並んでいた。その中に「逆転の日本史」編集部(編)『日本人のルーツがわかる本』(洋泉社、1999年)があり、またこれがわが輩の手を引き寄せた。普段は、この店でこの類いの本を手に取ることはないのだが、何の因果か、ページをめくった途端、ナント!前夜に取り上げた論文執筆者たちの名前が出てくるではないか。血液採取に関する得意げな話や写真まで載っている。立ち読みすれば坐骨神経痛が出るし、図書館まで借りに行く交通費より安い(105円)から、蔵書は減らしていきたいし、これも「情報廃棄物」(前に紹介した大橋力氏の本の中の言葉)になると思いながらも、買って帰った。

 この類いの、血液採取の話を取り上げた本はいろいろと出ているのかもしれず、知らぬはわが輩ばかりなりといったところだったのか。無防備に得意げに語るその姿は、いわゆる「悪意」はなく、科学的知識の探求にまっしぐらといったところなのだろう。彼らがそれだけ無防備に語っている背景には、"Gene Hunters"がいち早く描き出していた問題を監視する社会勢力がこの国では育っていなかったということがあるのだろう。これも、知らぬはわが輩ばかりなりかもしれないが。

 追記1:
 以下、上掲書の宝来聰「ミトコンドリアDNA ジャワ原人は日本人の遠い先祖ではなかった!」より。

宝来 ミトコンドリアDNAを精製するのにはいろいろな方法がある。当初は私もいろいろ試してみました。たとえば血液から抽出する方法も比較的手っとり早い方法ですが、それでも、ほとんど全身の血液を還流させなければならない。一時間半も拘束されるために体への負担もかかる。そんなことは誰もやってくれませんよ(笑)。
 結局、私自身がやりましたが、ある特定の遺伝子を見るには、純粋かつ大量のDNAを抽出しなければならない。
 そこで考えたのが、妊婦の胎盤からミトコンドリアDNAを取り出す方法です。胎盤は妊娠中の母親と胎児をつなぐ組織で、赤ちゃんが生まれたあと、だいたい五〇〇グラムから一キログラムぐらいのものが排出されます。その後ほとんどは焼却処分されるので、産婦人科の先生に頼んでおけば、比較的簡単に分けてもらえます。 八三年の秋頃から、国立遺伝学研究所のある静岡県三島市内の産婦人科に頼んで、胎盤集めをはじめたんです。
――先生が直接集めて回ったんですか。
宝来 ええ。産院から連絡をもらうと、アイスボックスをかついで直接分娩室に入っていくわけです。待合室にいる方は「変なのが来てるな。なんやろ?」と思っていたかもしれませんね(笑)。
 日によってまとまって手に入ることもありましたし、一つだけということもあった。五つくらい同時に入手したときは、研究実験室はもう大変でした。DNAというのは、すぐに処理しないとどんどん悪くなる。すりつぶすのに、夜中の一時くらいまでかかりました。
――すりつぶすというと?
 細胞までバラバラにするわけです。それから遠心分離器にかけてミトコンドリアDNAを抽出する。当初は手作業ですりつぶしていました。その後もっと簡便な方法を、ということで、肉屋さんが使う挽き肉器とジューサーミキサーを買い揃えました。
 八三年の暮れには一一六人分のミトコンドリアDNAが集まりました。それらを「制限酵素切断型多型」と呼ばれる方法で分析してみると、三島市の一産院だけで集めた一一六人の日本人が、六二の異なったタイプに分類できたのです。(後略)」(p. 153)

宝来 (略)
 八〇年代前半の人類学では、北海道のアイヌや沖縄の人びとは、日本列島の先住民である縄文人の系統につながることが指摘されていたので、私は八五年春に沖縄で胎盤集めを開始しました
 沖縄の八二人のミトコンドリアDNAを分析した結果、(後略)。

 こうした地域差に興味を持った私は、さらに本州最北端の青森で胎盤を集めてみました。六一人のミトコンドリアDNAを調べたところ、(後略)。


宝来 ええ。そこで私は三地域の日本人のほかに、国際都市・東京で韓国、中国、タイ、マレーシア、フィリピンなどのアジア人、ヨーロッパ人、アフリカ人のサンプルを収集し、さらにアメリカの研究チームの協力でアメリカ先住民のDNAをもらうなどして、計一二八人の塩基配列データを得ました
(p. 156)

 86年にPCR法という分析方法が開発された。

宝来 (略)
 私たちの研究グループは、様々な方々からご協力をいただいた結果、三島の本土日本人、アイヌ琉球人の日本三集団と、韓国人、中国人の計二九三人の東アジア人のサンプルを集めることができました。(後略)(p. 160)

 協力の質がどのようなものだったのかは不明である。

 以下、田島和雄「ATLウイルス 南米インディオと現代日本人の一部は共通の先祖を持っていた!」より。

田島 (略)[鹿児島での国際会議で]コロンビアのパジェ大学教授のウラディミール・サニノビッチという神経内科医と知り合いまして、彼が現地の採血活動にとてもよく協力してくれた。(後略)

――これまでに南米へは何回ぐらい行かれたのでしょうか。通算でどれくらい滞在していますか?
田島 八九年からですから、一〇年間で二〇回くらい行ってますね。それぞれ二、三週間は滞在しますから、合計すると一年分ぐらいはいたことになります。多い時は年間に三〜四回も足をはこびました。
――やはり調査方法は数多く採血して回るということですね。
田島 ええ。僕たちは「国際吸血団」と言っているんですよ(笑)。僕はその団長。ですから血を採るのは速いですよ(笑)。
――調査と言っても、秘境に分け入るわけですから、相当な苦労があったと思いますが。
田島 そうです。苦労しないとこのウイルスには出会わない。道路事情が悪くジープでガタガタ道を数時間も行かなければ到達できないようなところとか、アンデス高地をロバと歩いて行くようなところ。辺鄙な場所に行かないとこのウイルスは出てきません。["Gene Hunters"に描かれていたのと同じだ。――D. X.]
 つまり、人が動かず混血しにくい地域ということです。日本でも地理的に周囲の町と隔絶された交通の不便な集落にキャリアが高率に温存されています。
――簡単に採血させてもらえるのですか?
田島 もちろん拒否する人もたくさんいますが、比較的スムーズに活動できていると思います。おそらく僕たちが白人だったらこんなにうまくはいかないのでは、と思います。
 彼らは、アメリカ、あるいはヨーロッパ人に対して征服された恨みといいますかコンプレックスがありますから。もともと南米大陸に住んでいた彼らにとっては、「スペイン人が南米大陸を発見した」なんていう西洋中心の考え方ほど人を食った話はないでしょうからね。その点、僕たちは肌の色も彼らと近いですし、少なからず仲間意識を持ってくれるのでしょう。(pp. 171-173)

 172ページには、共同研究者の鹿児島大・園田俊郎氏が採血している写真も掲載されている。

 追記2:
 わが輩は、1980年代前半は日本にいなかったし、当時はこの分野の動向にはほとんど注目していなかった。医療分野における「インフォームド・コンセント」に関しても、1985〜86年まで大して関心はもっていなかった。だから、当時の報道などを遡って調べないと詳しいことは分からないのだが、1998年にこれだけ堂々と語っているということは、社会的に何の問題にもならなかったということなのだろう。しかし、2つ前に書いた記事の末尾に挙げている「遺伝子の無断採取・解析に関する国内事例」と比べても、産院からの胎盤集めは――対象者全員から同意を得ていたというのであれば別だが――問題ありではないのだろうか。人類学者の行状をきちんと検証する必要があると仰っている知人の歴史研究者がいることだし、このあたりのことも含めて、その方にお願いしたいと思う。


転載元:http://ainupolicy.hateblo.jp/entry/20110530/1306736795

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