AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

人体「標本」返還と脱植民地主義(先住民族の「遺骨」と原爆犠牲者の臓器)

 ここから書く記事は、しばらく前から投稿しようと思っていたのだが、他の用やニュースで時間を取られて書き上げることができなかった。結果的には、マオリの頭部返還ニュースが入って来て、それにつながる話となったと思っている。すなわち、日本政府も自国民の「人体標本」の返還を求めて外交交渉を行なった経緯があるのである。

 上で言及している論文は、G. Grupe and J. Peters (eds.), Documenta Archaeobiologiae: Yearbook of the State Collection of Anthropology and Palaeoanatomy (Verlag M. Leidorf Rahden/Westf, 2004)に所収のPhillip Walker, “Caring for the Dead: Finding a Common Ground in Disputes over Museum Collections of Human Remains”である。Walker氏は、2009年に亡くなってしまったが、当時、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の人類学教授であり、アメリカ自然人類学会(AAAP)の会長や副会長、スミソニアン協会の(遺骨)返還検討委員会のメンバーなどを歴任したことのある生物考古学者である。Walkerは、遺骨返還論争において、敢えて一言で称すれば、中間派というか、折衷派に分類することができると思うが、この論文のタイトルが示す通り、彼は科学者と先住民族の協力の可能性を探ろうとする研究者グループに属していると言えるのではないかと思う。(但し、その「協力」というのは、今のアイヌ政策推進過程で度々出てくるような低レベルのものとは違うとも言えるだろう。)ただ、わが輩が今日ここで取り上げたいのは、この論文の全体の内容あるいは本論というのではなく、その冒頭、“Introduction”(序)で言及されている一つの歴史的事件(p. 13)である。

 Walkerは「序」で、新たに力を得てきた「第四世界」諸国――すなわち、先住民族ネーションズ――の政治指導者たちの多くが博物館のコレクションとして保管されている祖先の遺骨を今も継続する「植民地主義の抑圧と人種差別の象徴」とみなしているとして、上述のゴードン プラーの著作から次のような言葉を引用している。プラー博士は、アラスカ先住民族とともにスミソニアン博物館との半世紀にわたる遺骨返還運動に携わった経験を有する人類学者としても知られているが、自分たちの民族の若者が、アメリカ政府が自分たちの祖先の身体を「所有」し続けるということがわけのわからない理由でもって許容されることなのだと信じ続けさせられるとすれば、若者たちがこの国――米国――の他のすべての人々と平等であると感じることを可能にする自尊心を持つことは難しいであろうと述べて、遺骨の盗掘・無断保管・研究材料化と現代に残る植民地主義の精神的・心理的悪影響との関わりを示唆している。そしてWalkerは同じ段落で、次のように続けている。

この政治的文脈において、博物館の考古学および民族誌学上の収集物は、合衆国から日本へのその返還が戦後関係の交渉の媒介の役目を果たした原爆犠牲者の解剖標本に比較され得る「外交の対象物」とみなされ得る。

 この件でわが輩がアイヌ民族の遺骨返還問題との関連で関心を持っているのは、死者の人体組織を研究資料として保管していたアメリカ軍に対して、日本政府がどのような論理で返還を求めたのかということである。この件については、きっと専門的に研究されている日米外交に詳しい方が、この日本にもいるのだろうと思う。さらに、自国民の人体組織の返還を政府が求めるのは当然であるが、Walkerがその歴史的事件と先住民族が自民族(自国民)の遺骨の返還を要求することとの間に同等の意義を認め、それを外交問題とみなすことができるとしている点である。現段階ではアイヌ民族の国家や政府はないが、法的に日本国民として生活している。そうであれば、日本政府は、自国民の死者の人体組織を、しかもそれが墳墓から無断で盗掘された遺骨である場合に、どのように守るというのであろうか。政府は、遺族と研究者のどちらの側に立つのであろうか。

 原爆犠牲者の臓器標本の返還についてWalkerが参照しているのは、M. S. Lindee, “The repatriation of atomic bomb victim body parts to Japan -- Natural objects and diplomacy,” Osiris, 13: 376-409(http://www.jstor.org/pss/301890)という論文である。このLindeeの論文をわが輩は、ある方のご協力で、やっと昨晩入手することができたのだが、ここを訪れる一般読者のために――そして、もちろん自分自身のために――ネット上で簡単に読める情報をいくつか挙げておきたい。この問題の根っ子は、とても深いところにありそうである。個人的に別件で少々気になることがあり、最近、遠藤周作の『海と毒薬』を読んだばかりのため、よけいにそう思う。色づけは、わが輩による。

日本人生存者は世界で唯一の原爆で被爆した集団である。この理由により、原爆傷害調査委員会(ABCC)の医学調査結果は科学者にとって、また米国における軍事・民間防衛計画にとって重要な意味を持つ。調査結果は科学刊行物において報告されるであろう。また国防総省、国家安全資源局、米国公衆衛生局、その他わが国で原爆の惨事の際に防衛と救済対策をとる責任のある機関で利用可能となるだろう。(出典:米原子力委員会資料)


 1950年6月19日、米原子力委員会は「ABCCの日本人原爆生存者に関する研究の継続」、すなわち広島・長崎の被爆者調査の継続を発表した。この当時は (略)日本はまだ米国の占領下にあり、日本人の間でさえも被爆の実相は知られていない時代であった。そうした中、「米国における軍事・民間防衛計画にとって重要な意味を持つ」ために研究継続の意義が説かれた。つまり、核戦争への準備のために被爆者研究が利用されていたのである。

 米国の利益のために被爆者研究が利用されたのはこの時に始まったわけではない。(略)すでに日本占領が開始される直前からその研究目的が説かれていた。45年9月に始まる占領後、米軍合同調査団は広島・長崎で医学記録ホルダー、ホルマリン固定臓器、パラフィンブロック標本(臓器をパラフィンで固めたもの)、顕微鏡スライド、写真などの被爆資料を収集し、46年1月呉から米国へと送った。これらの資料は米軍医総監局の管轄となり、米議会のすぐ近くにあった米陸軍病理学研究所で厳重に機密扱いされた。

 54年米陸軍病理学研究所は、ワシントンDCの北側に位置するウォルター・リード陸軍病院の敷地に建てられた核シェルターに移転した。この移転に伴い、米軍合同調査団やABCCによって広島・長崎で収集された被爆資料もこの施設に移った。60年代にその一部が、そして73年に全面的に日本政府に返還されるまで、被爆資料は核シェルターの中で極秘に厳重に保管されていた。このように、被爆情報は被爆者を救済するための医学研究に提供されることはなく、核シェルターの中で軍事資料として機密扱いされた。

 47年、トルーマン大統領命令によって、放射線の人体への影響に関する長期的研究を行う機関として発足したABCCは、最初から「被爆者の治療」という目的では存在しなかった。ABCCは軍人の要請によって設立されたからである。(略)被爆者はあくまでデータ収集の対象であった。ABCCは米科学アカデミーの管轄となり、その資金は、同じく47年に発足した米原子力委員会が提供することになった。50年には(略)ABCCの研究継続が発表された。

 研究の意義が説かれる一方で、その調査結果は機密扱いされた。同年に民間防衛対策本として米原子力委員会・米国防総省ロスアラモス国立研究所が出版した『原子兵器の効果』では、(略)原爆対策のための楽観的な情報のみが公表されていた。

 米公文書から明らかなように、米国の被爆資料は一貫して医学の向上や被爆者の救済、つまり人類そのもののために使用されてこなかった。(略)米国の被爆資料は主に軍事目的に利用され、被爆者はデータ収集の対象としてのみ扱われていたといえる

 (以下、略)


高橋博子「隠蔽されたアメリカの被爆資料」
HIROSHIMA RESEARCH NEWS, Vol.9 No.1 July 2006, p.4.
http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/bitstream/harp/2625/1/news25.pdf

(短い論説なので全文転載して紹介したいところなのだが、その許諾を得ていないので、部分的借用ということにした。上のURLで全文公開されている。)

被爆直後より米国や日本の科学者によって調査収集された膨大な学術資料や被爆者の病理標本が、アメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)から返還され、診察・剖検記録ファイル(約8000件)、ホルマリン固定臓器(約300症例)、パラフィンブロック(約350症例)、プレパラート(約200症例)、写真(約600点)として整理、保管されています。
http://abomb.med.nagasaki-u.ac.jp/abcenter/sdr/tissue.html

 こちらも参考まで。http://abomb.med.nagasaki-u.ac.jp/abcenter/materials-data/index.html

原医研・国際放射線情報センターの試み
 原医研は、放射線の人体影響を研究する目的で、一九六一年に設立されました。設立当初から、原医研・国際放射線情報センターにおいて、原爆被爆者の剖検材料の収集・保存を開始しました。これらは、三機関(広島大学医学部、県立広島病院放射線影響研究所)で病理解剖された被爆者のホルマリン固定臓器標本を、各機関で定めた保存期間終了後に移管したもので、一九九七年末までで八千四十四例に達しました。また、一九七三年には、AFIP(米国陸軍病理学研究所)が保有していた被爆者の医学資料が返還されました。これらは、被爆直後の状況を知る非常に貴重な資料であり、以後「被爆返還資料」として同センターが保管しています。


新田由美子・藤原恵「原爆被爆者の長期ホルマリン固定臓器の過去・現在と将来」
http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/2003-4/gakumon.html

1947年アメリカの占領軍当局の「要請」により政府は戦後最も重要な日本の医学研究所である国立予防衛生研究所(予研)を設立。その職員は東京大学伝染病研究所の出身者で半数を占め、細菌戦の研究機関にかかわっていたとされている。
 予研は、病原体とワクチンの研究であったが、生物製剤品質管理も一手に任されていた。しかし、一般に知られていない目的に、予研は広島、長崎のアメリカ管理下にある原爆傷害調査委員会(ABCC)に協力するよう指示されていた。予研もABCCも被爆者の治癒に専念するのでなく、被爆者の肉体的・精神的障害の進展状況を研究していたのである。
 予研設立当時の副所長であり、元細菌戦人体実験の研究者であった小島三郎は「この好機を逸すべきでないという事は等しく職者[識者?――D.X.]の考えたことである」と語っている。予研はABCCによる被爆者への原爆の影響の追跡サポートをしていたのである。 被爆者はABCCに診察を強要され、全裸にされてさまざまな検査をされた。そして被爆者が亡くなった場合家族は検屍解剖を強制的に承認させられたのである。
 被爆者は最後の最後まで人間として扱われる事がなかったのである。
「死の工場」ショルダン・H・ハリス著より


「戦後の731部隊」:
http://peace-k.eco.to/731butaitokouti/sengono731butai.htm

昨年11月14日に開かれた第2回「政策推進作業部会」では文科省から遺骨調査についての説明が行なわれているが、この時の政府省庁の出席は「財務省文科省文化庁厚労省農水省国交省ほか」と記録されている。「ほか」に入るのかどうかわからないが――そもそも出席していた省庁をすべて表示しないのが悪い――なぜ、盗掘という犯罪に関わる問題でもあるのに、法務省は出ていないのだろうか。第1回には出ているのに、第3回にも出ていない。初回で、有識者懇談会報告の枠組みでは、自分たちには関係がないと考えたのだろうか。


転載元:http://ainupolicy.hateblo.jp/entry/20120128/1327677954