AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

「シンポジウム報告『総合的なアイヌ民族政策はどうなるのか』」の感想

 昨日、『先住民族の10年News』(第177号)が届いた。(これすなわち、昨年の9月の上旬、本ブログが休止へ向けてペースダウンしていた頃に下書きしておいたものである。)7月31日のシンポジウムの報告が載っている(谷口滋「シンポジウム報告『総合的なアイヌ民族政策はどうなるのか』」(2-6ページ))。

 この記事で一番面白く注目したのは、「フロアを交えた質疑の主な内容」である。そこに「文化は、生活(のすべて)そのものと考えている。(佐々木さん)」とある(5ページ)。わが輩は最初、会場の「佐々木さん」の発言かと思ったが、「民族共生の象徴となる空間」作業部会部会長の佐々木利和氏の言のようだ。

 佐々木氏のこの「文化」観を取り上げたいのだが、それは後日に回して、その前に、上の報告で他に気になった事に先に簡単にコメントしておきたい。

 一つ目は、「[児玉作左衛門らに]滅びゆく民族を研究して残すと言われたことは忘れない」という宇梶静江氏の言葉である(6ページ)。昨晩書いた「先住民族 on ジェノグラフィックプロジェクト」に並べて入れたい言葉だが、同プロジェクトに関するものではないので入れなかった。だが、アイヌの遺骨のDNA研究と同プロジェクト双方に共通する問題が提起されている。

 二つ目は、有識者懇談会と政策推進会議の「責務」の違いを解説した後の、政策推進会議の「両作業部会とも半数以上アイヌが入っているし、審議内容はウェブで公開している。」(5ページ)という「北海道外アイヌの生活実態調査」作業部会の部会長、常本照樹氏の言。この、ホームページで、あるいは「ウェブで公開している」というのは、最近の行政窓口や企業のお客様相談係の常套句になっている感がある。これを言われる度に、わが輩にはカチンとくるのである。

 数だけの問題ではないことは、ここでは措くとして、「生活実態調査」の結果を受けて「アイヌの人々」の経済的・社会的不利、アイヌ以外の人々との格差を政策推進の根拠として押し出すのなら、その部会長が後半の言はないでしょうと申し上げたい。この作業部会の面々には、経済的・社会的に不利な状態が、いわゆるデジタル ディヴァイドに及んでいるのではないかという疑問はなかったのだろうか。そういう項目も、その言葉自体も「報告書」にはないようであるが。このようなブログを書きながらも、わが輩は、「Don Xuixoteのブログに書いてある」などと言う気は毛頭ない。

 三つ目。「<人骨問題>」の項目の下で、佐々木氏は、「学問の名の下に、人骨に固執した不幸な歴史があった。人骨をアイヌに返すのは当たり前である」と断言している。政府の会議内でも、その旨、強く発言しておられるのだと期待したいが、現代では、自然人類学者は、人骨/血液+DNAに固執しているのではないか? 佐々木氏は続けて、「人骨を研究素材とすることについてもアイヌの歴史を解明する研究方法が変わっていくことを期待している」と述べている(5−6ページ)が、何となく「どこ吹く風」ではなかろうが、他人事のように聞こえてしまう。青島刑事じゃないけれど、「事件は現場(作業部会)で起こっている」のです! アメリカのジェノグラフィック プロジェクトもそうであるが、「期待」するだけでは変わることはないであろう。アイヌ民族の遺伝資源と情報は、すべて研究者とそれをバックアップする国家政策によって管理下に置かれてしまうであろうと危惧する。今、作業部会や政府諸機関がそれに手を打たなければ、「不幸な歴史」の繰り返しになるに違いない。「生活(のすべて)そのもの」という有識者懇談会が提言する広義の文化政策とさえ、現代の先端テクノロジーを利用した「科学」の推進が矛盾しないのか、政策推進会議はしっかりと議論するべきではないのか。

Even as Yale reluctantly gives up its Inca plunder almost a hundred years after it was taken, the Washington, DC-based National Geographic Society is planning to capture new collections of Inca patrimony, this time in the form of human DNA. Unlike historical artifacts, however, the DNA can be copied, and once it is processed and its sequences stored, there is no practical way for it ever to be returned.
イェール大学がそのインカからの略奪品を、それが奪われてからほぼ100年後に渋々戻すという時にさえ、ワシントンD.C.に本部を置くナショナル ジオグラフィック協会は、インカの財産の新しいコレクションを奪おうと計画している――今度は、人間のDNAという形で。しかしながら、歴史的な人工遺物とは違って、DNAは複製することができ、一旦それが処理されて配列が保管されれば、それが返還される実際的な方法はないのである。
A pesar de que, a regañadientes, Yale se dio por vencida, casi cien años después del saqueo que le hizo a los Incas, la National Geographic Society de Washington DC, está planeando capturar nuevas colectas del patrimonio Inca, esta vez en forma de ADN humano. A diferencia de los artefactos históricos, el ADN puede ser copiado, y una vez es procesado y sus secuencias son almacenadas, no se puede devolver.

――Asociación ANDES (May 4, 2011)

◎追記(2012.02.18, 1:10):

 上に翻訳を入れた。

 上に言及した佐々木氏の「文化は、生活(のすべて)そのもの」という発言についての続きである。

 一つの言葉にすべてを包摂させると何も説明できなくなるという問題もあるが、果たして、この「文化」概念は、有識者懇談会・アイヌ政策推進会議の面々の間で、会議を傍聴している官僚たちの間で、「文化」の専門家の間で、そして国民の理解において、共有されているのであろうか。シンポジウムの場でも、共有されていなかったのではないかという印象を受けた。

 「文化は武器」だという結城庄治氏の言葉を引用するのなら、先住民族の遺産を守り、振興するためにホリスティックなアプローチで権利基盤を確立するべきだという横田洋三・サーミ評議会国連人権小委員会報告文書があるが、政策推進会議でそれが一顧だにされなかった様子――少なくとも、議事概要で目にした記憶がない――は、どう釈明されるのだろうか。しかも、それを著した本人が政策推進会議に入っていながらである。

 一般的には、「文化政策にしかすぎない」と現行政策が批判されるとき、人々は、明らかに異なる「文化」を念頭に話していると思われる。すなわち、文化を経済や政治、その他の領域と切り離す形での理解である。有識者懇談会は、このような見方や、歌や踊りや演芸などの文化的表現に限る見方を「狭義の文化」観とみなしていて、そのアプローチとしてはそれを打ち消している、あるいはそれから脱却しようとしている。しかし、現状はと言えば、狭義の上のまた狭義の文化政策しか進められようとしていない。

 一方で、やや概念的、抽象的になってしまうが、文化+経済+政治+その他というふうに足し合わせたり、積み上げたりしたところでの「総合的」政策では、ホリスティックな先住民族政策へのアプローチとはなるまい。例えば、現代医療の部分主義というか、臓器専門主義というか、臓器やその系統を切り離した専門診療科をいくつか寄せ集めた総合病院が、必ずしもホリスティックで包括的な医療を実践しているとは言えないことを考えてみれば、その違いが漠然とでもイメージできるのではないだろうか。

 現在の政策推進会議が依拠している有識者懇談会の報告書は、「文化」をどのように見ているのか、そしてその中で遺骨問題は、有識者たちによってどのように理解されているのであろうか・・・という問題が続くのであるが、長くなりそうなので、この記事はここまでとして、その問題は、また別に(いつか)取り上げようと思う。


転載元:http://ainupolicy.hateblo.jp/entry/20120216/1329326440