AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

「学術」の政治的動向

 札幌の方で、北大にあるアイヌ民族の遺骨をめぐって俄かに動きが出てきたようである。http://hokudai-monjyo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-947f.html

 また、学者による「人骨」研究の問題に関して、いわゆる「専門家」ではない市民の複数のグループが、過去の「学術論文」などを調べなおしていて、政府から何百万、何千万円もの研究費をもらいながら沈黙を押し通している現代の「専門家」への挑戦状を準備しつつある。前に紹介した『裁かれた壁』(http://d.hatena.ne.jp/Don_Xuixote/20120122/1327159388)のNAACPの弁護士たちの歴史書からの証拠探しのシーンを思い浮かべながら、こういう人たちが歴史の流れを変えて行くかもしれないと期待している。これからもっと多くの協力者が現れることを願うし、実際、現れるだろう。

 良きにつけ悪しきにつけ、インターネットが大きく社会を動かしている。一昔前には「学術」シンポジウムの報告などを片田舎に住む一般人が手軽に読めることなどなかったが、今では、ほんの数クリックで読めてしまう。ところが、「専門家」たちは、「権威」がなせるわざなのか、昔の感覚のままではないかとさえ思えることがしばしばある。

 昨年3月に法政大学で行われた「今、アイヌであること―共に生きるための政策をめざして」という公開シンポジウムの報告書が昨年刊行されているが、他に『学術の動向』という機関誌でも読むことができるため、いくつかの批判が書かれている。(http://fine.ap.teacup.com/makiri/130.htmlhttp://pub.ne.jp/ORORON/?entry_id=4173508など。)因みに、わが輩は、ちょうど昨年の今頃、「いよいよ、アイヌ政策(現状維持)コネクションの要人たちが表に出て来始めたなという印象である」と書いていた。http://d.hatena.ne.jp/Don_Xuixote/20110218/1297961440
http://d.hatena.ne.jp/Don_Xuixote/20110126/1296028614

 上で紹介した2つのブログでは、遺骨問題に関連して篠田謙一氏の批判が展開されている。このシンポジウムがどのようなものであったかは、聴きに行った人たちからも概要を聞いていたし、わが輩はこれまでにも有識者懇談会やアイヌ政策推進委員会の批判を書いてきたから、特に取り上げる気にもならないでいた。だが、一つ気になったのは、他のブログで書かれている批判やこれから書かれようとしている批判が政府の委員会メンバーだけに向けられているようで、意外にも、同シンポジウムにおいて、「挨拶」の次に、最初に話をしている本多俊和氏について何も書かれそうにないので、3つほど、気になる点を指摘しておきたい。以下は、本多俊和「世界の先住民族、日本の先住民族」、『学術の動向』Vol. 16 (2011), No. 9, pp. 66-69(http://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/16/9/9_66/_pdf/-char/ja/)を読んでのわが輩の感想である。当日の話の概要であって、「論文」扱いするようなものではないのかもしれないが、「本論文を引用する際に」という表示もあるから、彼らの間では、一応、「論文」と呼ばれるものなのだろう。なお、「特集2◆今、アイヌであること ― 共に生きるための政策をめざして―」の全体は、こちらから入ることができる、⇒http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/2011-09.html


 1点目。本多氏は、「国連を含め、国内外の組織で先住民族の定義を設定している組織はない」(66ページ)と言うが、これは正しくなかろう。直後の「というのは」以下は、正しい。さらに、「そのほかに、先住民族の権利に関して、国際労働機構169条約(1989年)や世界銀行指令OB/BP.10(2005年)などで具体的な条文があり、そうした権利に該当する先住民集団を規定する基準が必要だとされている」とも述べている(67ページ)。

 わが輩がどうしても解せないのは、本多氏は「具体的な条文があ[る]」と言いながら、「定義を設定している組織はない」――「国内外の組織で」と断定さえしている!――とか、「先住民集団を規定する基準が必要だとされている」と述べている。彼が言及しているILO 169号条約の第1条1項(b)と2項は、どう考えればよいのだろうか。しかも、彼が挙げる(マルティネス コーボゥ報告書に依拠している二次文献に依拠しているのではないかと思われる)4つの「属性」の中で「自認」と称する事項は、「基本的な基準」だと書かれている。日本政府が批准していないから、会場の人々は知らないとでも思ったのだろうか。ついでに言えば、アイヌ民族のように、現在の「法的な地位にかかわらず、独自の社会的、経済的、文化的、政治的制度慣行の一部またはすべてを保持している」人々に、この条約は適用されるのである。さらについでに言えば、同条3項が民族の自決権に限定的な注釈をつけているために、先住民族の間でも賛否が分かれたのである。

ILO Convention No. 169
Article 1
1. This Convention applies to:
(a) tribal peoples in independent countries whose social, cultural and economic conditions distinguish them from other sections of the national community, and whose status is regulated wholly or partially by their own customs or traditions or by special laws or regulations;
(b) peoples in independent countries who are regarded as indigenous on account of their descent from the populations which inhabited the country, or a geographical region to which the country belongs, at the time of conquest or colonisation or the establishment of present state boundaries and who, irrespective of their legal status, retain some or all of their own social, economic, cultural and political institutions.
2. Self-identification as indigenous or tribal shall be regarded as a fundamental criterion for determining the groups to which the provisions of this Convention apply.

 2点目。「ここで注意すべきは、先住民族としての法的な地位を与えられる集団は、それぞれの国家において定義されることである。」(67ページ)
 北米や北極圏での調査経験が豊かな本多氏は、そういう見解そのものに異議を唱えている「先住民集団」が存在していることは十分にご存知のはずである。そうした歴史的流れに抗して、北米その他の先住民族は、国際機関へと働きかけて行ったのではなかったか。従って、アメリカ合衆国と北米「先住民集団」の関係を歴史的に初めから「国内関係」という前提で捉えているからこそ、「先住民運動が国際的に本格化するのは、戦後の米国公民権運動の中である」という、これもあまりに単純化し過ぎていて、理解に苦しむ発言をしている。この見解では、例えば、グリーンランドや北欧の「先住民集団」の運動は、完全に無視されている。また、「本格化」はしなかったかもしれないが、イロクォイ六国連合が国際連盟に代表を送って「ネーション」としての地位を国際社会に認めさせようと働きかけたことは、今日ではよく知られていることである。

 4ページの短い「論文」の中で、上の引用の他に、「先住権──先住民族としての特別な権利──の可否は、所属する国家の法律によって保障が異なる」(66ページ)とか、「国連宣言が採択されたとしても、権利が保障される先住民になれるかどうか、そしてどのように待遇されるのかは、それぞれの国家の決定次第である」(69ページ)という発言が繰り返し出てくる。要するに、この点を強調したかったのであろう。

 3点目。少数民族には、先住権は認められない」(67ページ)と断言しているが、その認識がありながら、いや、その認識があるからこそか、アイヌ民族を「先住民集団」ではなく、「少数民族」とする「アイヌ研究に関する日本民族学会研究倫理委員会の見解」(1989年6月1日)を取りまとめた委員会に名を連ねていたのであろうか。

 しかし、一方で、シンポジウムの「論文」では、国際人権章典(世界人権宣言+2つの国際人権規約)に言及しながら、「『すべての<民族>(all peoples)には自決権および資源に対する権利は先住民族にも該当する』という解釈が国際的に認められる傾向にある。」とも書いている(67ページ)。校正ミスだろうと思うので言い換えると、「すべての<民族>には自決権および資源に対する権利があり、これらの権利は先住民族にも該当する」ということだろうと思う。すなわち、彼は“peoples”を「民族」として解釈しているのであり、その限りにおいて、「少数」であろうと「先住」であろうと、「すべての民族」には自決権が認められているのである。わが輩は「先住権」という言葉は使用しないできたが、「先住権」とは、こうした「先住民族の権利」であって、ただ単に「先に住んでいた権利」ではないのである。

 小さなことではあるが、ついでに2つ、冒頭の発言を付け加えておく。

 「1990年代まではアイヌ少数民族であることすら政府は国際的に認めていなかった。」(66ページ)――政府の「先住民に関する国連作業部会」での発言などを遡れば、これも厳密には正しくないことがわかる。

 1994年以降、「政府はアイヌ民族の状況について真正面から検討するようになった。」(66ページ)――「後ろの正面」の言い間違いではと思ってしまう。

 「検討」だけはしたのかもしれないが、「真正面」からとは! 近年の日本政府(行政府)のアイヌ政策に対する一貫した方針が何かあるとすれば、それは、「引き伸ばし」であり、「時間稼ぎ」である。そのやり方を「真正面」から検討してきたというのであれば、それでもよかろう。いずれにしても、本多氏はこの一言で、自らが政府と現行政策の代弁者であることを公言しているようなものである。その意味では、「小さなこと」ではなく、これをもっと大きく取り扱うべきであったかもしれない。(この段落、2012/02/28追記。)

 そして、もう一つ、「宣言は国際法上の拘束力はないが、世界各地の先住民族の待遇と権利の規範が示されている。」(67ページ)――以下の国際法の専門家の見解を参照されたし。

ここで法的拘束力が全くないのかについては、慣習国際法の形成との関係で検討すべきであろう。先住民族の人権に関する人権理事会特別報告者のJames Anaya氏は、2008年の年次報告の中で、国連宣言が独立国における先住民族に関するILO 169号条約やその他の国際法規範(国際人権条約機関による解釈を含む)の展開と整合性をもちつつ、こうした法規範の内容を広げる「現存の」国際的な合意を示すものと性格づけている。また、そこで引用されているAnaya自身の論文では、国連宣言が自己決定、文化的な統合、土地・資源、社会福祉・発展・自治、特別なケアの義務(positive measures)の6つの要素において、「新しく出現しつつある慣習法」を表しているという。
(苑原俊明「アイヌ民族の先住権の行方」『国際人権 Human Rights International』(国際人権法学会2010年報) No. 27、62-63ページ)

 もう少し書きたいことはあったが、疲れたので、ここで止めて、一息。


転載元:http://ainupolicy.hateblo.jp/entry/20120223/1329927466

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