AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

死者の「霊的意志」 / 離脱・発言・忠誠

 Roseは、紹介した詩で、生と死の不可分性、あるいは、死は生の一部であるから、そっとしておいて欲しい、手を出さないで欲しいと言いたいのだと思われる。

 偶々、今読んでいる本(加藤尚武脳死・クローン・遺伝子治療――バイエシックスの練習問題』、PHP研究所、1999年)にこういう議論が展開されている。

 古代の人間が文化を作っていた証拠として、死者の埋葬が行われているという事実がよく指摘される。埋葬という行為には、まず生きている人から、生命が失われて、その人が死者となったという認識があり、その死者の霊魂にやすらぎや慰めを与えようとするのだと理解したとしよう。そこにおける生者、死、死者(死体)、死者の霊的意志というキイワードは、そのまま今日の脳死論議にまでつながってきている。たとえば「私の死後の私の身体(死体)に関する私の意志」という観念の内容は、「死者」の「霊的意志」が現在でも社会的な意志決定の場面で働いているということを表している。
 脳死と臓器移植の問題には文化が始まったときから数千年間の問題が含まれている。私が死んだ後に私が私の遺体について決定権を行使する以上、私の意志という霊魂が死後にも存続していることになる。現代的な自己決定という枠組みの中にも、霊魂不滅という数千年間生き延びてきた観念が働いているわけであって、それが数年の議論で決着を見るということはありえない。(p. 47)

 こちらも最近読んで知ったことであるが、東京大学の解剖学研究室には夏目漱石や三木元首相の脳みそなどがホルマリン漬けされているらしい(養老孟司甲野善紀古武術の発見――日本人にとって「身体」とは何か』、光文社、2003年、216ページ)。これらの人々は、自分が死んだ後に自分が自分の「遺体について決定権を行使」して、臓器を提供しているのであろう。しかし、盗掘されたアイヌ民族の遺骨の場合、アイヌのコタンあるいはコミュニティの人々が「死者の霊魂にやすらぎや慰めを与えよう」として埋葬されていたものであろう。盗まれた遺骨、すなわち、「死者」の「霊的意志」は、こっそりと無断で発掘されて、研究標本とされて、研究室や倉庫の片隅にダンボールに入れて置かれる、そして、今度はまた、研究施設に移されて、一部を砕かれてDNAを採取されることであっただろうか。Roseが意図したと解釈されるように、静かに、安らかに眠りたいというのが、遺骨の主である死者の「霊的意志」であり、なぜアイヌの場合、それが叶えられないのだろうか。

 Wendy Roseの詩に、もう一つのもっとよく知られている"Three Thousand Dollar Death Song(3,000ドルの死の歌)"という詩(歌)がある。紹介しておきたい。

THREE THOUSAND DOLLAR DEATH SONG
 Nineteen American Indian skeletons from Nevada . . . valued at $3,000.
   ―invoice received at a museum as normal business, 1975

Is it in cold hard cash? the kind
that dusts the insides of men's pockets
laying silver-polished surface along the cloth.
Or in bills? papering the wallets of they
who thread the night with dark words. Or
checks? paper promises weighing the same
as words spoken once on the other side
of the mown grass and dammed rivers
of history. However it goes, it goes.
Through my body it goes
assessing each nerve, running its edges
along my arteries, planning ahead
for whose hands will rip me
into pieces of dusty red paper,
whose hands will smooth and smatter me
into traces of rubble. Invoiced now
it's official how our bones are valued
that stretch out pointing to sunrise
or are flexed into one last fetal bend,
that are removed and tossed about,
cataloged, numbe red with black ink
on newly-white foreheads.
As we were formed to the white soldier's voice,
so we explode under white students' hands.
Death is a long trail of days
in our fleshless prison.
From this distant point
we watch our bones auctioned
with our careful quillwork,
beaded medicine bundles, even the bridles
of our shot-down horses. You who have priced us,
you who have removed us ― at what cost?
What price the pits
where our bones share
a single bit of memory,
how one century has turned
our dead into specimens,
our history into dust,
our survivors into clowns.
Our memory might be catching, you know.
Picture the mortars, the arrowheads, the labrets
shaking off their labels like bears suddenly awake
to find the seasons ended while they slept.
Watch them touch each other, measure reality,
march out the museum door!
Watch as they lift their faces
and smell about for us. Watch our bones rise
to meet them and mount the horsed once again!
The cost then will be paid
for our sweetgrass-smelling having-been
in clam-shell beads and steatite, dentalia
and woodpecker scalp, turquoise and copper,
blood and oil, coal and uranium,
children, a universe
of stolen things.

                 From Bone Dance, pp. 20-21.

 数日前、少し時間があった時、アイヌ民族関係のサイトをいくつか見ている時に、偶々、北海道のこのサイトを訪れた。http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/indextop.htm
 そこに掲げられている項目(人/言/衣/食/住/祈/史)を見ると分かるが、アイヌ文化の紹介に、死と死後の世界がない。遺骨の問題を考えながら、わが輩が集めた資料の中にも、アイヌ民族の死生観というか、死と死後の世界に関するものが、決して多くはないが、少しある。研究の遅れた分野なのかもしれないが、なぜ、死、死者、死後の世界などに関する記述がないのだろうかと不思議に思った。

 上記の養老氏もそうだが、五木寛之をはじめ、日野原重明遠藤周作、そして柳田邦男もそうだったと思うが、わが輩がここ数年で読んだ、医療や介護、高齢者の問題を論じた著作家たちは悉く、戦後の日本人や日本社会が死というものと向き合うことをせず、むしろ死を遠ざけ、隠してきたと指摘している。この指摘が正しいとして――正しいと思うのだが――、もしかすると、道庁のサイトに死、死者、死後の世界という項目がないのは、戦後のいわゆる日本人と日本社会のそのようなバイアスを反映しているのではないかとも思った。(もしかすると、単純に、死後の世界と遺骨のことがつながって、やばい事になると考えられたのかもしれないが。)

 ついでに記しておくと、Roseの記事で紹介したポオの詩・詩論の著作にも「死者たちの魂」という詩がある(pp. 32-34)。それよりも、政策推進会議で夢を実現したいと思っている人たちには、こちらの方が適っているかもしれない。


「夢の夢」

その額に このくちづけを受けてくれたまえ。
そして今 君と別れるときに当たって
いささか私にも言わせてくれたまえ。
過ぎたあの日々のことが夢であったと
君が思うとしても 誤りではないのだ。
けれどもある夜 それともある日、
希望が幻や虚無の中へと
消え去ったにしても だからといって
それがなおさら虚しいと言えるだろうか?
私たちの見るもの 見えるものは
ことごとく夢の夢に過ぎないというのに。

波濤が岩を噛む荒磯の
ごうごうたる轟きのさなかに立って、
私は 手に
黄金の砂粒をにぎりしめている――
なんとわずかな砂!――しかもそれは
私が泣いているうちに――泣いているうちに、
指の間から みるみる海にこぼれていく!
ああ 神様! もっとしっかりと
この砂をにぎりしめていることはできないものでしょうか?
ああ 神様! せめてその一粒なりと
無情な波から救うことはできないのでしょうか?
私たちの見るもの 見えるものは
ことごとく夢の夢に過ぎないのでしょうか?

(前掲書、pp. 36-38。下線部分は、オリジナルでは傍点。)


■離脱、発言(声を上げる)、忠誠

 別れ――恋人とだけではなく、不平不満が増大する組織からの別れ、すなわち、関係を断ち切る離脱。離脱に当たってではなく、離脱する前に組織の中で活発にかつ建設的に、改善を求めて不満を表明する声を上げる、すなわち、発言。そして、受動的に、しかし楽観的に、状況が改善するのを待ちながらの忠誠。アルバート O. ハーシュマンの古典的著作で提示された3類型であるが、有識者の面々は、選択の道をもっているのだ。

http://homepages.wmich.edu/~plambert/comp/hirschman.pdf

 既に論じてきていることであるが、わが輩は、アイヌ政策形成過程の成り行きに関して、物言わぬ/言えぬ官僚だけをバッシングするつもりはない。実際に、彼らが他の有識者たちよりも圧倒的な権力と影響力を有しているのかもしれないとしてもである。

 第4回政策推進部会の議事概要を読んで、これこそ「バラマキ」の構図の見本であると感じた。参加者全員に何がしかの「利益」が配分されていて、そこに取り込まれてしまった人々は、その権益を容易には放棄できなくなってしまいつつある。「利益の一致」というキャッチフレーズで、堅固に組み込まれている。しかし、「有識者」たちのこれまでの積極的PR活動を見れば、彼らは、そのような受身的立場にあるだけとも考えられまい。

 有識者懇談会の報告書が政策形成過程の出口までまったく手付かずの状態で実現できるとは、「現実主義者」の常本氏や佐々木氏も考えてはいなかったであろう。もしそう考えていたとすれば、あまりにナイーヴである。しかし、今のところは、まだ許容範囲内で順調に進んでいると考えているのではないだろうか。

 いずれにしても、政策推進会議や作業部会の他の構成員も「利益の一致」でハーシュマンの「忠誠」の道を選択しているのであれば、彼ら/彼女らも官僚たちと同じ穴の何とかであろう。


転載元:http://d.hatena.ne.jp/Don_Xuixote/20120316/1331828801

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