AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

「古人骨標本の再埋葬の問題をめぐって」

 列車やバスなどに乗って目的地へ向かっている時に、ふと車窓から気になる光景が目に入ることがある。その光景はやがて見えなくなるのだが、ずっと後まで記憶に残っていることがある。わが輩にとって、先住民族の遺骨・血液・DNAに関する問題は、80年代から90年代の旅の途中にちらっと見えていた、そんな車窓からの景色に似ているような感じがし始めた。

 古本屋で偶然に手(目)を惹かれる本、別の本を借りに行った図書館で偶々横に配架されていた本。そういう本の中には1990年代に発刊されたものが多い。改装のために1年ほど閉館になっていた近くの小さな公立図書館が開館となり、しかも、ある本を珍しく所蔵していたので数日前に借りに寄った。そこで同じ棚に並んでいた本を見ていると、おもしろい記述に出合ったので借りてきた。その内容については、また別の日に補足するかもしれない――いつもながら、しないかもしれない。

 以下、わが輩が「おもしろい」と思った部分を、やや長くなるが、全文引用する。1990年発刊の本であるが、現在の形質人類学者や遺伝人類学者が言いそうな代表的な見解ではないかと思う。1999年に文庫化されてもいるようだ。これ以外、今夜は、敢えて何もコメントをつけないし、色や太字で強調もしない。(引用中の太字は、原典のままである。)むしろ、読者がどう考えるのかを聞いてみたいとも思う。

        古人骨標本の再埋葬の問題をめぐって


 少数民族による古人骨の返還要求運動
 最後に堅苦しい話で申しわけないが、古人骨をめぐる社会的な問題にも触れておかなければなるまい。少数民族による古人骨の返還要求などに関わる動きについてである。マイノリティーの民族意識とか、人間に普遍的な宗教意識とか、研究者の対社会意識とかが複雑に絡み合った問題なので、あまり深入りすることは避けたいが、できるだけ簡単に私見を述べておきたい。こういうところで十分に書き尽くせる問題ではないので、真意が伝わるかどうか、大変不安な気持ちもあるが、くれぐれも誤解だけはないようお願いしたい。
 近年、自分たちの祖先の遺骨とおぼしき古人骨を各地の博物館や大学の資料室から取り返して、自分たちのテリトリーに再埋葬しようとする運動が少数民族の人たちの間で盛んとなって、社会の注目を浴びるようになってきた。既に、オーストラリアでは原住民の古人骨が、さらにアメリカの一部の地域ではアメリカ・インディアンの古人骨が、その所有を主張する関係部族グループにそれぞれ返還されて、再埋葬とか、ときには焼却などの処置がとられている、と聞く。また、ニュージーランドではポリネシア人マオリ)の間で、日本ではアイヌの人たちの間でも、この種の動きがあるという。
 つい最近も、この問題に関する新聞記事を読んだ。スタンフォード大学の研究者が長年の発掘調査で集めてきた古人骨資料が、オロニ族というアメリカ・インディアンの部族の長老たちに引き渡されて、改めて埋葬されることになったという。


 遺骨崇拝
 この地球に存在するおそらくすべての民族は、死者には最大限の尊敬を払って崇拝しなければならないという宗教的な規律や習俗を祖先代々強く受け継いでいる。そして、人が死ぬと、その遺体の大部分はすぐに腐朽して、骨だけがあとに残される。このため、死者の等価物として、その遺骨が尊敬と崇拝の対象となりやすい。こうして、遺骨崇拝の観念が普遍的なものとなる。
 かかる観念のおもむくところ、古人骨は、祖先の人格を宿した遺体そのものであるか、死者となった祖先そのものであるとみなされるようになる。このために、古人骨を発掘して、それを研究したり、公共の場で陳列したりすることなどは、偉大なる祖先への辱めであると同時に、神の御業へのゆゆしき冒瀆であるということになり、遺体の縁者であることを自認している人たちには尋常ならざるショックを与えることになる。
 しかし、古人骨は死者そのものではない。むしろ、死者の纏っていた鎧のようなものだ。この点では、セミの抜け殻やトラの皮とはたいして変らない。ならば、古人骨を特別視して、死者の遺体としての情緒的な面のみを強調し過ぎるのはいかがなものであろうか。それよりも大切なことは、先祖の様子を知るための情報源として古人骨を再評価することではないだろうか。古人骨は、いうならば、先祖が自らの死によって遺してくれたタイムカプセルのようなもので、そこには彼らのメッセージが詰め込まれている。だから、祖先の遺体の一部として畏敬の念を抱くだけでなく、祖先のメッセージを解読するための媒介としての面が見直されてもよいのではなかろうか。
 私が強調したいのは、祖先をよく理解するためには古人骨に勝る物はないのだ、ということである。ならば、古人骨を情緒的な呪縛から解放して、もっとポジティブに、そしてもっと客観的に観ていこうというイデアが生まれてもよいと思うのだが。どうだろうか。
 たとえ過去のある時期に一時的に支配者だった者たちが半ば略奪的にかすめとっていったものであるにせよ、単なる被害者意識のようなもので、博物館や大学の保管室から古人骨資料を奪い返して、再び大地に埋め戻したり、焼却したりするようなことがあるとしたら、結果的には祖先を知る手段を自ら絶つことになって、後世に後顧の憂いを残すことになるのではなかろうか。


 古人骨の還る場所
 条件さえ整えば、ヨーロッパやアメリカなど世界の各地に散らばっている古人骨資料はすべからく、しかるべき国とか少数民族のグループに返還されるのがよいであろう。いま述べたように、古人骨は二面性を持つものである。一つは、遠い祖先の残した唯一の形見として。そして、もう一つは、その祖先たちの様子をうかがうためのかけがえのない文化財としての意味をもつ。この二つの面を矛盾することなく解決するには、それらが本来あるべき場所に保管されるのがよいであろう。
 望ましい条件とは、それらが返還されるべき場所に、安置するにふさわしい十分な設備があって、保管能力をもった担当者が存在することである。各地の研究者たちがそれらを調査したいときには、研究に供されるべき適切な便宜と、十分な配慮が払われることも必要である。博物館の一部でもよい、あるいは何らかの研究所でもよい。もし、そういうものがまだ存在しなければ、当事国や国連などの関係機関がしかるべき施設を設立しなければならないだろう。そして、その後に返還されるべきである。
 古人骨の研究には、これだけのことが完了したから、それですべてはおしまいといった終止符はない。今のところは、これぐらいのことしか解らないと言っても、将来新たな視点から見れば、別なことが解るかもしれない。また、将来新しい別の古人骨標本が見つかって、その比較資料として大いに役立つかもわからない。
 しかし、ひとまず検査が終った後に、個体識別用の番号だけが残されて、ほこりを被ったままでただ放置されているとしたら、あるいは客見せの陳列品かなにかのようにズラーと並べられているだけだとしたら、当の古人骨を祖先の一員に数える人たちは許さないだろう。形質人類学者を含む先史学の関係研究者は皆、この問題を真摯に受け止めなければならない。取りうる道は一つ。現代の科学の中でかかる古人骨を再生すべく最大限の努力を払い続けることだろう。先史古代人に関わる最大限の情報を引き出すべく奮闘を惜しまないことだろう。そしてさらに、可能な限りその成果を広く世に知らしめる努力を怠ってはならない。
 いかなる民族といえども、死者となった祖先に対しては最大限の敬意を払うと同時に、祖先のことをもっともっと知りたいと思うのが人情だろう。祖先のことを知るには古人骨が一番だ、という主旨のもとに、本書を展開してきたつもりである。もう一度繰り返そう。古人骨は、私たちの祖先が私たちに残してくれた文化遺産である。誰のものでもない、人類が全体として共有すべき、かけがえのない古文化財なのである。そして、そこから得られる先史古代人に関する知識は、人類共有の財産にしなければならないことは言うまでもない。


(片山一道『古人骨は語る――骨考古学ことはじめ』、京都市同朋舎出版、1990年、192-196ページ) 


転載元:http://ainupolicy.hateblo.jp/entry/20120626/1340639423