AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

ホネカブリとホオカブリ

 ある方に遺骨返還請求裁判の次回の公判(6月14日)がまたもや既に入っている私の検診日と重なっているとメールでお知らせたのだが、政策推進作業部会の次回会合もまた同じ日に設定されているようだ。自分たちの地元で重要な裁判がある日だから別の日に変更して欲しいなどとは言わないのだろうか。むしろ、同じ日であれば、どうして傍聴にも来ないのかと責められなくてすむから、好都合なのだろうか。でもまあ、議事概要を読んで、どっちでもよいという気持ちになった。

 2つ前の記事に引用した部分に、次のような発言があった。

アイヌの祖先というものは、死んだ人を土に戻すという考え方だから、その墓にお骨を入れて墓参りをしない。だから、葬儀はコタンの人たちはみんなでやっていた。アイヌ協会は、墓地移転改葬事業として、土葬された遺骨を火葬場に持っていき焼骨して日本的な墓としてきたが、これは本当はアイヌの葬送ではない。そこで、日本的な祭祀継承者という考え方とするに当たり、そうしたアイヌの葬儀というもの、遺体に対する考え方などを検討されたかどうかお尋ねする。ここの言葉は、国としてきちっとした方が今後の対応としてよろしいと考える。

○ 元々、アイヌには墓を守るという考えはない。昭和くらいから、日本的な宗教になってから墓参りなどをするようになった。収集された人たちの時代にはそのような考え方はない。本来であれば、地元のアイヌの人たちに集まってもらって相談してもらうのが筋だろうが、祭祀承継者という日本的な発想で答えると間違いが生じると思ってお尋ねした。

 2つとも同じ人物による発言のようであるが、どなたがどのような意図で質問しているのかは不明瞭である。「検討されたか」と文部科学省からの出席者に問うているようであるが、この辺のことは当然、有識者懇談会や政策推進会議などでも議論されていないとおかしいはずだ。ということは、この作業部会になってから新たに加わったメンバーの発言ということになるのだろうか? これもまあ、誰でもいいやとも思うが、どのような「間違いが生じる」のか、もう少し詳しく述べて欲しかったなと思う。述べたのだけど、議事概要には載せられなかった? まあ、どうでもいいや。発言にはいろいろな思いが込められていそうでもある。

 「日本的な宗教」というところで少し思い起こしたことを書いておく。
 五木寛之(編)『うらやましい死にかた』(文藝春秋、2002年=文庫)の最後に「日本人の草の根にある死生観」(pp. 163ff.)という杉本苑子氏との対談の章がある。その冒頭で、五木氏が筑豊地方では葬式を「骨噛み」と言うという話を持ち出している。これを読むまで、私はこの「筑豊文化」について知らなかった。

 その後、山折哲雄『仏教民俗学』(講談社、1993年)の第19章「骨と日本人」(pp. 233-243)にも「骨咬みの慣習」について述べられているのに出遭った。

 五木氏の話の中にも、亡くなった人を座らせるような格好で丸い桶のような棺に納める話が出ていたが、私が生まれる少し前か、生まれて物心がつくくらいまでは、田舎の方でそのような棺に納めて土葬する慣習が実践されていたようで、幼い頃、近所で葬式がある度に、母が「昔は・・・」と言って、そのような棺の話をしていた。
 4歳か5歳くらいの時だっただろうか、組内(=隣組)の親しかった家の葬儀の手伝いに母について行ったのが、私の最初の葬式体験であったが、その頃はもう、今のような長方形の棺で火葬だった。実はこの時、こたつで寝そべっていた私は、生涯忘れることのできない、ある衝撃的な光景というか、モノを見てしまったのであるが、話が完全に逸れるので立ち入らないことにする。(いつかお会いする機会があれば、尋ねてみて下され。)

 手元に、五木寛之野坂昭如『現代日本の文学II-10 五木寛之 野坂昭如 集』(学習研究社、1976年)がある。写真ページの後に、尾崎秀樹デラシネの軌跡を追って――五木寛之文学紀行」という文章が掲載されており、そこに五木氏が「『青春の門』<筑豊篇>の構想を得たのではないだろうか」という香春岳の写真もある。五木氏が「香春岳は異様な山である」と始めた、三連の山である。「香春岳、惜しいところに禿がある」とも地元では言っていたが、山全体が石灰岩でできているためセメントの原料採取に頂上から削り取られてきた。かつてはセメント工場の煙突から出る白粉で町内の家々の屋根は真っ白になっていた。昔は香春岳に城があったらしいが、高度経済成長期の町は、企業税に依存するセメント会社の「城下町」でもあった。煙突からの「公害」がメディアなどの話題に上ることはほとんどなかったが、「日本一の自然破壊」の地ではないかと思っていた。一の岳が削られて生息地を追われたニホンザルが、二の岳、三の岳へと移動し、さらには山から下りてきて麓の農作物を荒らすようになっていたが、このことは今でも時々ニュースネタになっている。
 その香春岳の写真の横に「筑豊 中元寺川ボタ山」というキャプションが入った写真がある(p. 21)。この本は、Amazonの検索で挙がってこないから絶版なのだろう。だが、尾崎氏もしくは学習研究社の編集担当者に、ルビについて一言申し上げたい。「中元寺川」は、筑豊地方を流れる遠賀川水系の河川の一つで、「ちゅうげんじがわ」ではなく、「ちゅうがんじがわ」である。

 この中元寺川を遡り、添田町の中元寺という地を越えてさらに南へと行くと、大分県との境に修験道の山として有名な英彦山がある。ここは、民話や伝承の「宝庫」と言われている。その地に「古代から連綿と続い」ていた文化の中核である信仰が、明治維新後に外からの力によって壊された。

 維新をなし遂げたばかりの新政府は慶応四年(1868)の三月末、神道の権威を確立するため、神仏分離令を出す。古来、神と仏が合体して成り立ってきた各地の神社、修験の山では、仏教色を消し去る廃仏毀釈のあらしが起きた。英彦山権現はこの年、いち早く「英彦山神社」と改称する。・・・・
 修験道禁止令(明治五年)をまたず、修験者が峰に入って修行する「峰入り」は明治三年限りで終わった。これは英彦山修験道の重要な行事だった。民衆の信仰と娯楽が混然一体となる壮大な祭り「松会」行事も崩壊した。生活できなくなった山伏たちは次々と山を下り始める。[入力しながら、上に書いたニホンザルのことや、まったく関係のない五木寛之の『下山の思想』が邪魔をする!]幕末に二百五十九戸を数えた山伏の家、「坊」は、明治五年までに百二十戸が消えた。残った山伏も神官、農業、職人へと転じた。
 明治七年、英彦山廃仏毀釈の行動は極限に達する。山内の仏像はことごとく打ち壊され、谷に捨てられた。ここに、古代から連綿と続いた信仰は大きな打撃を受け、山は閉ざされたに等しい状態に陥ってしまう。

朝日新聞西部本社(編)『英彦山』(福岡市、葦書房、1982年)、39-40ページ。<少し前まではAmazonで出ていたが、今はないようである。>

 但し、根こそぎ絶やされてしまったわけでもない。

「日本の宗教、文化史上、最大のミスが廃仏毀釈。一千年以上の伝統を持つ山岳宗教を解体し、庶民のレクリエーションの場まで失わせた」と前置きし、英彦山山伏の末裔で横浜市に住む駒沢大助教授・長野覚さんはこう話した。
 「英彦山の歴史は表面的には抹消されたが、根深いところに残っている。明治七年の仏像の徹底破壊は英彦山の外から来た人による。山に住み続けてきた山伏たちの手で守られ、疎開された遺物も多いはず。・・・・
 (同書、pp. 41-42)

 「筑豊文化」についてはこの辺で止めておくが、昭和期には炭鉱資本によって再び、鉱害という公害に象徴されるように、大地と社会の文化がズタズタにされた。その後の産炭地振興策がどれほどの効果をもたらしてきたかを見ていけば、北海道の地域振興策の課題と重なるものもあれこれと見えてくるだろう。

 「骨かみ」に戻ろう。上で、「組内(=隣組)」とわざわざ注を付けたのは、山折氏が暴力団の組長や会長の葬儀の際の慣習から話を始めているからでもある。山折氏は、柳田国男の調査報告書にも言及しながら、「ホネコブリ」、「ホネカミ」、「ホネカブリ」などの慣習が、北部九州一円に見られるだけでなく、関西にも、そして関東や東北にも分布していたと述べている。さらには、「日本列島の全域に及んでいたのかもしれない」とも推測している。山折氏は、こうした「死者の骨を咬むという行為は、むしろ、死者と生きのこった者とのあいだの特別な結びつきを確かめ合うということだったのではないか」(p. 235)と考えている。

 しかし、こうした「日本人の遺骨崇拝」、「死者の遺骨にたいする尊重や崇拝の観念」は、『万葉集』の時代にはなく、11-12世紀になってから「貴族層における遺骨尊重と高野山への納骨慣習の浸透という変化」が現れたとのことである。その要因として、氏は、「浄土教の一般的な浸透」、「仏教以前からの山岳信仰」、「高野聖たちの積極的な宗教活動」の3つを挙げている(pp. 237-239)。
 こうした「日本人の遺骨崇拝」が近年揺らぎ始めているというのが、その後の論点であるが、それはまた別の機会に取り上げることもあるかもしれないと思う。

 冒頭に引用した作業部会での発言の意図が不明瞭なことと、眠くもなったから、敢えてこれ以上のことは書かない。尻切れトンボではあるが、「日本的な宗教」とは何だろうと考えてみた、くらいに読んでもらえればよい。

 オッと! 標題の説明を忘れるところだった。遺骨をかむことを「ホネカブリ」などと言う。遺骨が盗掘されたことを知っていながら知らないふりをすることを「ホオカブリ」または「ホオカムリ」などという。

(Revised: 2013.05.31)


転載元:http://ainupolicy.hateblo.jp/entry/2013/05/30/010340