AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

日本学術会議『報告 アイヌ政策のあり方と国民的理解』を読む(1)

 日本学術会議地域研究委員会人類学分科会が「審議結果をとりまとめ」た(p. i)『報告 アイヌ政策のあり方と国民的理解』(2011年9月15日)という文書がある(http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-h133-1.pdf)。意外と、知っている人は知っているが、知らない人は知らない――当たり前だが――という類の文書である。先に紹介した放送大学の教科書と比較しながら読んで行くと、笑えるところもあり、推理小説のようでもあり、また呆れてしまうところもありと、なかなか面白い。
 日本学術会議とは、ある方の見方では、「政府のアイヌ政策を所管している『内閣官房アイヌ総合政策室』に近い位置にある組織といえる」とのこと(http://fine.ap.teacup.com/makiri/130.html←記事の真ん中辺りから下)。

 冒頭(p. i)に人類学分科会委員会の名簿がある。この方たちが、日本の人類学を「内外に代表する」地位にある権威者たちである。この分科会は、2011年3月にシンポジウムを主催した組織である。この時わが輩は、「なぜ法政大学でなのだろう」と考えていたのだが、委員長のお膝元だったようだ。
http://race.zinbun.kyoto-u.ac.jp/event_report/20110306.html
http://d.hatena.ne.jp/Don_Xuixote/20110126/1296028614
http://d.hatena.ne.jp/Don_Xuixote/20120223
そして、来る4月27日には自然人類学分科会と合同で、先日紹介したシンポジウムを企画している。http://d.hatena.ne.jp/Don_Xuixote/20130306

 まず、要旨(pp. ii-iii)を読むと、「政府のアイヌ政策を所管している『内閣官房アイヌ総合政策室』に近い位置にある組織」という性格付けがぴったりである。「近い」というよりも、もう重なっているという感じすら受ける。アイヌ政策有識者懇談会『報告書』を「満額回答」と評した北海道アイヌ協会にとっても強〜い味方である。

 『報告』自体は上のURLで読めるが、読者が行ったり来たりしなくて済むように、適宜、コピー&ペーストして、色分けした箇所にコメントをつけながら何回かに分けて読んで行くことにする。

 アイヌの人々の抱えている問題について、我が国の対応はこれまで決して十分であったとはいえない。一般社会では日本は単一民族国家であるという考え方が戦後長らく保持され、ことさら国内の「異文化」に目を向けてこなかった。しかし、海外では1950 年代半ば(昭和30 年代)より、先住民族の権利主張がアメリカ合衆国などで始まり、先住民族の権利の問題がとりあげられるようになる。最初に取り組んだ国際機関はILO であるが、やがて国連でも1982 年(昭和57 年)には先住民族に関する作業部会を立ち上げて検討を行い、「先住民族の国際年」や、「世界の先住民族の国際の十年」を定めるなどし、2007 年(平成19 年)には「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択した。

 大体、この手の文書を読む際に、集合的に「アイヌ民族」と表記してもおかしくない箇所まで含めて、ことさらに「アイヌの人々」という表現が繰り返される時は、読者は、それが政府や行政寄りの立場から書かれた文書であると考えて、まず間違いない。試しに、iiページだけで「アイヌの人々」が何回登場するか、そしてその使われ方を見てみるとよい。わが輩は、この用法の政治的意味を1987年に指摘したことがあるが、すっかり行政用語として定着してしまったな。

 「単一民族国家」観は「一般社会」――それが「一般」に理解される意味において――だけの問題であるのか。放送大学テキストで本多氏は、「日本に対して特殊な感情を抱く右翼団体の主張のほかにも政治界、教育界などで活躍するいわゆるオピニオン・リーダーによってくりかえし表明されている観念である」と指摘して、事例を列挙している(pp. 209-210)。この点は評価しておくべきだったかなと独りごちるが、この部分の記述に、本多氏は異議を唱えなかったのだろうか。人類学分科会の人々はそうではないのだろうが、日本学術会議の他の分野の権威ある学者たちでさえ、「単一民族国家」観を現在も保持し続けているだろうと、わが輩は考えている。
 「単一民族国家」と「民族」を問題としているのに、なぜ、「国内の異民族に目を向けてこなかった」とせずに「異文化」としているのだろうか。文化人類学会の前身、日本民族学会は、1989年に「アイヌの人びとの場合も、主体的な帰属意識がある限りにおいて、独自の民族として認識されなければならない」と認めているではないか。

 「要旨」のこの部分にあたる本文は、8ページに次のように出てくる。

 1950 年(ママ)半ば(昭和30 年代)にアメリカ合衆国公民権運動が始まった。これは主にアフリカ系アメリカ人の権利にかかわる運動として発生したが、その後さまざまなマイノリティがアメリカで権利主張を始めることとなった。それらの一連の運動の中にアメリカ先住民族の運動があり、この後、世界中で先住民族の運動が活発化していく。

 分科会『報告』が分担執筆されて、この部分は本多氏が担当しているのかもしれないが、「1950年代半ば」からアメリカで「始ま」ったという「先住民族の権利主張」とは、具体的にどのような事例を指しているのだろう。「1950年代」というのは、「1950年代のアメリカに起った公民権運動に端を発した先住民運動」(114ページ)というような文言で本多氏の放送大学テキストでも出てくるのだが、どこにもこれについて詳述されていない。分科会『報告』の8ページにおける上の記述やこの「公民権運動に端を発した先住民運動」という見方には問題があるので、後で再度取り上げることにするが、ここでは上の文章と次の引用を比べて欲しい。

このような[=「インディアンの言葉と文化の継承を不可能にする結果を招いた」]状況は基本的に1950年代までつづき、公民権運動が盛んになると同時に植民地的な状況に終止符を打つ政策がようやく実施され、やがてそれは先住民の権利回復につながっていくのである。(放送大学テキスト、p. 98)

 「1950年代まで」というのが、その初期までなのか、終盤までなのか分からないが、アラバマ州モントゴメリーでの「バス ボイコット事件」が1955年であるから分科会『報告』の「半ば」とも一致する。『報告』では、「先住民族の権利主張が・・・始まり、先住民族の権利の問題がとりあげられるようにな」っただけなのに、放送大学テキストでは、「同時に植民地的な状況に終止符を打つ政策がようやく実施され」たのだそうだ。
 さらに、「公民権運動が盛んになると同時に」実施された連邦インディアン政策とは、何を指しているのだろう。1953年には、連邦政府のインディアン トライブに対する歴史的な責任を終結させ、保留地を解消してインディアンを個人としてアメリカの一般社会に統合・同化するという政策が一部のトライブに対して下院議会の決議という形で実施された。また同年には、刑法の管轄権を連邦政府から州政府に移す法律も制定された。(これに関しては、今日、非常に興味深い出来事が展開している。)そして、人類学分科会委員会の一員である本多氏が「植民地的な状況に終止符を打つ政策」と位置づけているのは、この時代の「終結政策」の一環として制定された1956年の「インディアン転住法」、別名「成人職業訓練法」による政策なのであろう。これは、保留地に住むインディアンに都市への転住を奨励し、職業訓練を受けてアメリカの一般人口の中へ溶解=同化していくことを推進した政策であった。
<続く>


転載元:http://ainupolicy.hateblo.jp/entry/20130320/1363710541