AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

憲法とアイヌ民族

 深夜のもう一言である。もっと先々まで取っておきたかった話題ではある。

 今、手元にないが、山川力氏の何冊かある著書の中の『政治とアイヌ民族』(未来社、1989)ではなかったかと思う。その中の1章で宮沢(俊義)憲法学を取り上げて、日本の憲法にも憲法学にもアイヌ民族が存在しないことを批判していた。

 これも、あれから25年。その状況をどうするかではなく、アイヌ政策有識者懇談会の露払い役の憲法学者は、憲法にはアイヌ「民族」という集団の権利は書かれていないし、憲法とは元々そういう性質のものであると、人権啓発団体の機関誌に書いたり、某アイヌ協会の若者に講演しているようである。(その某協会が、なぜこの人を招いたのかは、私が知る由もない。「この人」を特定してもよいし、啓発誌や講演のURLを示してもよいが、そのような見方はこの国の憲法学者の大半が共有するものであろうから、敢えて売り出してあげることもないだろう。)

 こういう憲法学者は、気楽でいいなと率直に思う。中には、現行憲法でもアイヌ民族の集団的権利の保障は可能だと知恵を絞っている学者もいるようであるが、上の学者のように、憲法には個人の権利しか書かれていないということであれば、そこからアイヌ民族の権利をどう保障するかという問題については、大別して2つしか道はない。一つは、何もしないこと。アイヌには「集団の権利」を諦めなさい、個人として日本国憲法と「日本国民」の中に溶け込みなさいという選択肢である。上の憲法学者の論も、つまるところ、これになる。個人と国家との間に存在する集団の権利保障をどうするのかという課題について、アイヌ民族の権利が議論の対象から消えれば、この国においては考える必要がなくなるという便利さである。アイヌ民族が存在していなければ、国民的統合の問題解決もはるかに容易になる。それゆえに、戦後長い間、北海道旧土人保護法が一方で存在しながら、法体系においても、教育体系においても、その他諸々の領域でアイヌ民族は存在しないとされてきた。この学者が、個人の権利の保障だけで、アイヌ民族の文化をどのように存続させようと考えているのか、いつかどこかに書くか、語るかして欲しいものである。
 
 憲法に集団の権利が書かれていないという場合のもう一つの道は、では、アイヌ民族の権利を憲法に明記しようではないかとなる。アイヌ民族の権利など普段眼中にない保守派で改憲派には、都合の良い「同士」として歓迎されるかもしれない。一方で、アイヌ民族の人権保障をと日頃言っているリベラル派や革新派で護憲の人々からは眉を顰められる。むしろ、憲法に関しては「何もしない」論の方が、この国においては、いわゆる「護憲派」の学者にも受けることになる。

 遅くなったので、一旦、ここまでにする。

 因みに、「集団的自衛権」という言葉はどうにかならないものか。これほどまでに広く、深く浸透しているからどうにもなるまいが、フツーの国民の中には、国民という集団の自衛権と勘違いしている人も多くはないか。「同盟国のための戦闘権」とか「同盟的参戦権」とかはどうだろう・・・と言っても虚しいだけか。

 山川氏の他の著作の1つ:山川力『アイヌ民族文化史への試論』(未来社、1980)


P.S.:以下は、ある論文中の引用からの引用である。私がよく知る執筆者によれば、この論文は締め切りまでの時間が2週間くらいしかなく、大急ぎで書かねばならなかった上に校正は1回きりで、しかも校正した事項の多くが見落とされたまま印刷されたために――当時はまだ手書きによる校正だった――、あまり公に出したくないそうで、出典は省いてよいと承諾を得ている。

もし一民族/人民(a people)が自らを自由に他の民族/人民に編入することによって――つまり、移住あるいは自発的割譲によって――自らの自決権を行使するのであれば、その民族/人民は、自らの独立した地位を放棄し、受け入れ国家と政治的に一体となる。自決の権利は存続するが、その後ずっと、一つの声を持つ一つの民族/人民として、受け入れ国と共有して行使されねばならない。少数者(a minority)として、その人々は、受け入れ国の法の下でも非差別的取り扱いおよび法律と責任の一般的枠組みの範囲内において自己の文化を保存し、発展させる自由の両方を正当に要求することができる。・・・・
 民族/人民の自発的編入が起こったことがなく、また、二つの民族/人民の政治的権利の自由な統合が存在しなかった場合、状況は異なる。非合法的に併合されたり、強制的に自国の外へ移住させられた民族/人民は、それによって自らの独立した発言権および運命の選択権を失うものではなく、その行使のための抑制されない機会を与えられるまで、その権利を保持するものである。その人々は、強奪、植民地化、あるいは奴隷化という強制力によって少数者となるのではなく、なおも民族/人民のままなのである。
 従って、少数者と民族/人民との間の区別は、我々の概念においては、合意の質から生じるのである。民族/人民は、そう選択すれば、少数者になり得る。しかしながら、少数者は、暴力あるいは抑圧によってつくられるものではあり得ない。

 上述の憲法学者は、アイヌ民族がいつ、どのようにして「国民」に編入されたのかを歴史的分析に基づいて明示しなければならないだろう。

 昨年の国連常設フォーラム(PFII)の模様をこのブログで伝えた時、PFII事務局によって提出された「国家の憲法先住民族の権利に関する国連宣言に関する研究」報告書が提出されていることに言及しておいた。その後どこかに翻訳が出ていれば、それを利用するのが手っ取り早いのだが、どこかのNGOがこの文書を翻訳して広めたかどうかも、どこかの学会や研究者の論文で取り上げられているかも知らないから、また後日、(可能であれば)ここで概要を紹介しよう。

 参った! さっさとパソコンを切れば良かったのに、眠たい頭で書き続けたために、お恥しいことに、引用箇所を間違えた! せっかく入力したからそのままにしておく。引用したかったのは、次の部分である。

・・・自決権の行使は、(1)「国家建設およびその憲法制定に意味のある参加を行う権利」、および(2)その後の国家の政治における「効果的発言」を行う「継続的権利」の2つの側面を含む・・・。通常、先住民族の願望が(1)の段階において考慮されておらず、従って、先住民族は、「構造的に政治的権利を剥奪されている――即ち、仮に差別なく現存の国家の制度に自由に参加することを容認されていても、彼/彼女らの生活に対する意義ある影響力を獲得できないのである。」

 先住民族は、政治的に支配的な住民から顕著に異なっている故に、彼/彼女らが国家の制度において単に発言権を有するだけで、それに対する統制権をまったく持たないでいる限り、価値の衝突と搾取はほとんど不可避的である。最も開かれた民主制においてさえ、彼/彼女らは恒久的かつ無力な反対派少数者同然となる。これが故に、これほど多くの先住民族が、彼/彼女ら独自の制度をある程度まで承認し、尊重するために国家を再構築することを主張しているのである。我々は、国家を瓦解させるのではなく、当初の立憲構想の交渉に先住民族が含まれていたならば、十分にそうなっていたであろうと考えられる形態において国家を再構築することとこれをみなしている。

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転載元:http://ainupolicy.hateblo.jp/entry/2014/06/05/020152