AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

「開拓」のイデオロギー

It’s the same problem as that of capitalism. You colonize to develop commerce, not for the well-being of the colonized. . . . you must see men, and not just things.
                            ――Simone Weil
資本主義の問題と同じである。植民地化するのは商業を発展させるためであって、植民地化される人々の福利のためではない。(中略)人間を見なくてはならない、単に物だけでなく。   
                            ――シモーヌ ヴェイユ(注1)

[T]he worst thing that colonialism did was [to] cloud our view of our past.
                            ――Rukia Odero
植民地主義が行った最悪のことは、私たちの過去に対する私たちの視界を曇らせたことである。
                           ――ルキア オデロ(注2)


 「報告書」の「歴史的経緯」の章は、「現時点での知見に基づき、アイヌの歴史を振り返る」(2ページ)と述べているように、何ら新しい歴史的発見に基づく叙述があるわけではなさそうである。中学・高校生向けと上で述べた由縁でもある。参考文献もない。しかし、「歴史的経緯」を読み進むうちに、上述の通り、「現時点での知見」が十分に取り込まれていないことにも読者は気付くであろうし、違和感を覚えるに違いない。その違和感とは、特定の言葉の意識的な使用と使用回避から生じるものである。その言葉とは、とりわけ、「開拓」と「植民地(化)」である。そこに、「報告書」のイデオロギーと、「2つの『先住民族』論」へとつながる、もう一つの限界が明確に現れている。
 「報告書」は、「歴史的経緯」の冒頭で、「これまでアイヌの歴史や文化については、日本国民共通の知識とはなってこなかった」として、3つの理由を挙げている。①「歴史的に、アイヌの人々が圧倒的に少数であったこと」、②彼・彼女らが「我が国の政治の中心地から遠く離れた北辺の住人であったこと」、そして、③「生業や宗教の差異から生じる文化的相違が一方の目からは野卑(悪い習慣)とみなされ、その享受者は野蛮な存在であり、その文化は価値の低いものとみなされたこと」である。(2ページ)
 ①について、アイヌ民族はこれからもしばらくは「圧倒的に少数」であり続けるであろう。②について、日本の各地に居住しているとはいえ、アイヌ民族人口の大部分は「北辺の住人」であり続けるであろう。(しかし、札幌という北海道の「政治の中心地」に多くのアイヌが住んでいながらも、道民共通の知識にさえなり得なかったのはなぜなのであろうか。)そして、ここでの議論に最も重要なことに、③について、アイヌ民族が「野蛮な存在であり、その文化は価値の低いものとみな」してきたものの見方は、この「報告書」においてすら払拭されていない。ゆえに、「報告書」の「歴史的経緯」は、「国民」がそれから脱却する手引きとはなり得ないであろう。この③の思考は、自民族中心主義の民族的・文化的優越主義に基づくものであり、レイシズム(人種差別主義)を成す。
 「報告書」では「開拓」という言葉が、何の説明もなく繰り返し登場する。「開拓」とは、一般には、「山野・荒れ地などを切り開いて田畑にすること。開墾」(『大辞林』)として理解されている。しかし、それには同時に、「未開」の地を「文明(開)化」するという規範的な意味が含まれてもいる。戦前の北海道庁と戦後の北海道庁によって書かれた公的な歴史は、同化政策を文明と啓蒙の推進役として正当化しようとしていた。これらの公史は、同化政策を「開拓」や「開発」、「文明化」という外套に包んでいた。それは、欧米を中心として第2次世界大戦後の世界に広がった近代化論や発展・開発論の北海道版であった。ここではこれを仮に「開拓・開発史観」と呼ぶことにする。
 戦前期には「殖民」や「拓殖」、「植民地」という言葉は官民で一般的に用いられていたにも拘わらず、奇妙なことに、「報告書」にはそれらの言葉は一度も登場しない。今日、北海道史における「開拓」は、「殖民」や「拓殖」の婉曲表現となっている。その意味では、「開拓とは何か」ということ自体が独自のトピックとなり得るし、「報告書」も、その見直しとともに議論するべきであった。
 開拓・開発史観は、歴史が単線上を進歩するという前提に基づいている。文明と啓蒙の配達人としての日本国家と移民の到来と、暗黒の無知の中にいるアイヌ民族の排除は、歴史上の「発展」や「進歩」を成すとされてきた。こうして、アイヌ・日本関係史全体が、優位文化をもつ人々が未開のアイヌを手助けし、保護する歴史とされる。日本という国家と社会による植民地政策と同化政策は、アイヌ民族を物心両面から救済する手段として正当化されてきた。
 開拓・開発史観のイデオロギーは、学問の世界に留まらず、学校教育やマスメディアを通じて国民の意識にも浸透していった。北海道の地方自治体による地方史を含め、圧倒的な数の歴史書がこれまでこのアプローチを採ってきた。「開拓」と「開発」を中心に構成された公的な歴史は、アイヌ民族の役割を無視または軽視しながら、「開基」イデオロギーを推し進め、広める機能を果たしてきた。
 開拓・開発史観は、北海道殖民政策の搾取的本質を開拓=発展という仮面の下に覆い隠してしまう。病の原因でありながら、この史観は、医師のふりをしてアイヌ民族領への侵略と権利の剥奪を正当化する。この史観にとって同化は、目標としてかつ事実として自明のこととなる。
 「報告書」は、北海道開拓の負の側面を「アイヌの文化への深刻な打撃」(10ページ以降)として認識してはいるが、「文化」以外への影響を論じることは避け、また、「開拓」政策そのものの評価にも踏み込んではいない。従って、戦前の「開拓」政策が「開発」と化粧直しをして戦後に受け継がれてきた歴史にはまったく言及がなされることはなく、経済成長路線の上で競争と効率化を推し進める開発主義と単一民族国家観との関連にも分析の光が当てられることはなかったのであろう。ここで、「報告書」に昭和の歴史がないことの理由の一端が見えてくる。
 「開拓」の延長線上には、戦後の近代化論や発展・開発論が存在する。「近代化」や開発主義がアイヌ民族にどのような影響を及ぼしてきたのかを分析し、評価する必要があるが、「報告書」は、戦後の「近代化」や開発主義の評価を避けてしまっている。そこでは、単一民族国家観の拡散も当然論じられなければならないが、これもまったく話題に上っていない。
 「報告書」の歴史叙述を好意的に評価する人々が言及している主な部分は、「アイヌの文化への深刻な打撃」を取り上げている部分である。しかし、その冒頭段落で「北海道[が]明治政府の統治下に置かれ」、「大規模な和人の移住による北海道開拓が進められることになった」としながらも、その「統治下に置[く]」という政治的・法的行為そのものについて論じることはなく、次段落は「北海道の植民地化」ではなく、「北海道開拓は」で始まり、「開拓」へと話は移る。厳しい条件下で開拓した「人々」の貢献を称えるが、背後の国家や資本家階級の役割、移民が荷物と一緒に持ち込んだ「内地」のイデオロギーや偏見への言及もない。従って、次項の「自由競争」がアイヌ民族にとって本質的に「自由」であったのかを問うこともない。明治政府の「富国強兵」策と植民地政策全体の検証へとは進まずに、まず「文明開化」とその同化政策への影響を論じるが、その「同化政策は基本的にはアイヌの人々の教化政策として行われたが、結果的に、民族独自の文化が決定的な打撃を受けることにつながったといわざるを得ない」(11ページ)と主張する。「教化」とは、「人を教え導き、また、道徳的、思想的な影響を与えて望ましい方向に進ませること」(『大辞泉』)という意味であり、まさに、「文明」が「未開」を導くという構図であるが、しかし、「結果的に」と言うように、支配のための意図があったのか、なかったのかは脇に置かれ、教え導くという善意の意図にも拘わらず、結果が負と出たという解釈が滲み出ている。しかも、それは「文化」に対してだけ認められているのである。これは、「内心への脅迫」としての同化政策という北海道アイヌ協会の見方(第2回会合「議事概要」、5ページ)とは大きく異なっているが、「報告書」と「議事概要」には異論は記録されていない。
 このように、「報告書」は、頑なに「植民地化」や「植民地政策」という言葉を避けている。明治政府も「殖民政策」と称していたのに、なぜ「植民地政策が進められた結果」と述べないのであろうか。そうすれば、植民地主義における富国強兵政策、入植者が持ち込んだイデオロギー北海道帝国大学や研究者の役割、宗教的布教活動の役割、等々、その全体像を捉えるために「歴史的経緯」に収めるべき事項が、多々見えてこよう。

(5)「報告書」から読み取れる「不正義」
 「開拓」政策の一環として描かれている施策の中には明らかに植民地施策が含まれている。12ページに登場する「北海道土地売貸規則」をはじめ、北海道に対象を限定した当時の法規は植民地法である。「文字を理解する[アイヌ]人はごく少数」で「北海道土地売貸規則」によって「所有権を取得したアイヌの人はほとんどいなかった」(12ページ)とされているが、その結果は予想できたはずにも拘わらず実施されたことの不正義は認められていない。
 土地の個人所有観念がアイヌにはなかったことが繰り返し述べられ、土地の保護という観点から官有地への編入策が正当化されているが、仮に動機がそのような「善意」に基づくものとしても、保護された土地のその後の管理実態はどのようなものであったのか。そのように「保護」策がとられたにも拘わらず、アイヌが土地を失い、しかも「保護」もなくなったのはなぜなのか。
 「開拓が進む」につれ、「アイヌの人々が生活の糧を得る場を追われる」こととなったが(13ページ)、ここで言う「生活の糧を得る場」というのは、「権利宣言」に言うところの「土地・領域」であり、これは言い換えると、植民地政策により、アイヌ民族生存権を侵害されたり、奪われるに至ったということである。同じことは、13-14ページの「伝統的生業(狩猟、漁撈)の制限」にも言える。
 言葉の選択による「植民地政策」隠しは、教育についても見られる。15-16ページで小学校における教育の「格差」に言及しているが、これは今日広く使われている「格差」とは異なる性質のものであろう。「日本語の習得を優先する教育」と「理科や地理などは教えられ」なかったのはなぜか。これはまさに、アジアや太平洋の「海外」の植民地で行われた教育と同質の支配のための植民地教育そのものではなかったか。
 研究者による遺骨の取り扱いについても多くの問題があるにも拘わらず、「報告書」は、あっさりと流した後、「まとめ」(17ページ)で再び、2度も「文化」への「深刻な打撃」を強調する。しかし、既に指摘した通り、これは「近代国家形成過程」のみを取り扱うものであり、その後の時代はまったく扱われていない。「近代国家形成過程」でアイヌ民族が「被支配的な立場に追い込まれ」たことは述べられていても、その支配の主体は不明瞭なままである。アイヌ文化に「深刻な打撃」を与えたのは何なのかが、曖昧なままである。そしてその理由は、北海道旧土人保護法に対する見方から説明することができる。同法が「アイヌの人々の窮状を十分改善するには至らなかった」という見解は、同法をアイヌ民族救済のための法律として、その「善意」の意図を認めているからに他ならない(注3)。そこから、当時と今の時代の言葉は違っても、同じ路線上の「アイヌ救済策」が政策提言として展開されるのである。

(注1)Simone Weil and Janet Patricia Little, Simone Weil on Colonialism: An Ethic of the Other (Lanham, Md.: Rowman & Littlefield, 2003), p. 27. 日本語訳は、筆者による。
(注2)ケニアの歴史学者。Barack Obama, Dreams from My Father: A Story of Race and Inheritance, rev. ed. (New York: Three Rivers Press, 2004), p. 434の引用から。日本語訳は、筆者による。
(注3)(4)の「近代」の節の直前の段落で登場する「土人」の説明(「当時『その土地の人、土着の人』という意味を有していた」)も、「差別」という批判を避けるためか、妙に弁解的である。当時の日本人は、その説明の意味で自らを「土人」と称していたであろうか。

「『アイヌ政策有識者懇談会』の政治学入門⑥」、『先住民族の10年News』第159号(先住民族の10年市民連絡会、2009年11月17日)より一部借用。