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AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

強制移住と土地・資源(1)

北海道ウタリ協会 on 強制移住と土地・資源

 現在進行中のアイヌ政策過程でアイヌ民族の集団の強制移住が議論されたという記憶がないから、アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会の第2回会合(2008年9月17日)での北海道ウタリ(現:アイヌ)協会理事長の加藤忠氏のヒアリング資料その議事概要(pp. 1-12)を振り返って見た。もちろんそれ以前から種がなかったとは言えないのかもしれないが、北海道ウタリ協会が1997年前後を転機として--理事長交代劇、政治家の「同化完了」発言とそれへの対応、アイヌ文化振興法、etc., etc.--すっかり変わってしまったとよく耳にするが、それにも増して、この7年ほどの間の顕著な変貌ぶりを改めて確認することとなった。

 加藤理事長の発言には、このように語られている。(この文書からは、7年半が経過して、改めて考えるべき課題が浮き上がって見えるが、今回は、強制移住の点だけに絞る。)

1つ目は、同化政策に焦点を当てた観点です。
(略)
 同化政策と同時に、隣国ロシアとの間に結ばれ、数度にわたり変更された国境線画定や領土問題に絡む国際条約締結などにおいて、否応なく、樺太アイヌ、千島アイヌが居住の地から移住させられました。


 2つ目の観点は「土地と資源」です。アイヌ語では概念が異なってきますが、「モシリ」「イオル」「アエプ」などで対応するものです。
 アイヌ民族が古くから居住し、山、川、海すべての大地や海洋にある動植物との密接な関わり合いの中、広義の文化享受と自らの民族の生命を託してきた、いわゆる「土地と資源」が、自らが他の場所に移動することなく、居ながらにして他者に奪われたのです。
 また、あまり知られていませんが、道内市町村史にも記載されているように、小樽、旭川、釧路、網走など、入植者の都合により、北海道内においても居住に適した土地から別の不適な土地へと、多くの強制的な移住が行われました
 アイヌ民族の生活は、基本的に「土地と資源」から生産される一次的な自然資源の生産物とその交易により成り立っていました。
 自らの日々の生活を営むため、子孫を育むため、自然との調和がとれた社会を維持し、発展させるための可能性や自らの世界観、価値観の基盤となるさまざまな「人」と「土地・資源」との繋がり、「神々」との繋がりが分断されました。そして、それが継続できなくなってきたという厳然とした事実があるということです。


 3つ目の観点は「法制史」です。
 「法制史」の変遷過程とそれら時代背景や実効性を検証することが、この懇談会審議に重要であると考えます。
 憲法で言う国家の3要素「領土」、「人民」、「主権」との関係もありますし、先刻の国会決議にもある「我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも、差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を厳粛に受け止めなければならない」のくだりは、実質的に、一方的に無主の地として日本領土に組み入れた後、地券発行条例などの4つの土地法などを定め、施行してきたという具体的内容を共通認識としなければなりません。
 「同化政策」も「土地・資源」の収奪も抑圧される側への法制度などとしての押しつけがあったからに他ならないからです。その権力側からの多くの与奪に法律や制度が関わってきたからです。
 「民族」としての対策の一貫性が保てなかったことと「先住民族」と認めたがらなかったことは表裏一対で、もちろんその政策判断や効果の検証なども曖昧なままにされてきたのです。


 「同化政策」、「土地・資源」、「法制史」の3つの観点から、アイヌ民族と日本、日本人との関係性を述べましたが、基本的な問題は、「民族の自決権」、当事者の存在尊重、そのとらえ方とあり方、そのものが重要視されてこなかったことです。このように述べる一番の理由は、今回の政策を考えるに当たっての根幹の思想を設定するに当たって、認識の過ちをしないためです

(pp. 5-6)


アイヌ政策有識者懇談会 on(強制)移住
 上のヒアリングから1年も経たずに、2009年7月29日に内閣官房長官に提出されたアイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会の『報告書』には、次のように、強制移住への言及がなされている。(因みに、当時の報道によれば、加藤理事長は、この『報告書』を「満額回答」として賞賛した。ゆえに、「変貌した」と上に書いたのである。その後、「満額」の小切手は、ちゃんと換金できたのだろうか。)

③ 近代的土地所有制度の導入とアイヌの人々
 また、明治政府は、全国的に租税制度を確立するため、北海道においても近代的な土地所有制度を導入する。この中で従来アイヌの人々が狩猟、漁撈、採集を行っていた土地についても、持ち主を明らかにして売払いを進めようとした。当時、アイヌの人々で文字を理解する人はごく少数であり、イオルとして集団的な土地利用はあった*1ものの近代的な意味での個人的な土地所有の観念がなかったため、アイヌの人々で所有権を取得した人はほとんどいなかった。やがて移住者である和人の増加に伴い、アイヌの人々は狩猟、漁撈、採集などの場を失っていく。中には、和人の移住に伴う区画割や市街地の形成の際などにアイヌの人々を移住させたも見られる。(p. 12)

⑥ 勧農政策
 明治政府は、明治4(1871)年から土地を開墾するアイヌの人々には家屋及び農具等を与えることとし、農業を奨励した。
 その後、鹿や鮭などの捕獲量が減少すると、明治16(1883)年に根室県が、明治18(1885)年に札幌県が相次いで「旧土人救済方法」を定めて大規模な勧農政策を展開した。両県は、アイヌの人々の生活の困難を救済し将来独立自営の途を歩ませるために指導員を派遣し、農具や種子、食料を給付して農業を教えた。その際、指導の便宜などの理由から、山間僻地などにまばらに住んでいたアイヌの人々を移住させたも見られた。
 この勧農政策は、明治19(1886)年に県が廃止され北海道庁が置かれると、明治23(1890)年には廃止されたが、政策の実施地域においては、戸数にして約半数が農業に従事するようになっていた。しかし、官の指導が廃止された後には大半の農地が荒廃してしまい、もともと狩猟採集民族であるアイヌ*2の人々の多くは農業を生業とする生活を行うまでには至らなかった。(pp. 14-15)

 和人の「移住」ではなく、アイヌの「移住」に関して特筆に値する言及は、唯のこれだけである。私は、かつて次のように、同報告書を論じたことがある。

 「報告書」は、歴史、現状、将来の施策と、大きく3部構成になっている。全部で42ページに別紙2枚という短いものである。(略)有識者懇談会は第3回会合で米国先住民族政策を概観しているが、リンゴとオレンジを比較するようなものだとしても、1970年代に歴史的政策を見直して今日の政策に繋いだ委員会の報告書が全2巻で1500ページ(日本語で同一書式にすれば、恐らく3000ページ)を超えるものであったことを顧みると、「国民」はなんともいい加減にお茶を濁されたと思えて仕方がない。長ければ良いというものでもないが、「国会決議」の文言にしても然り、この国の政治文化の一面でもあろう。

 「広義の文化享受と自らの民族の生命を託してきた、いわゆる「土地と資源」が、自らが他の場所に移動することなく、居ながらにして他者に奪われた」との問題提起を行っていながら*3北海道アイヌ協会の代表たちは、その後の6年半に及ぶアイヌ政策推進会議やその作業部会において、どうしてその「根幹の思想」の議論をそのままにしているのであろうか。強制移住の「例」をもっと具体的にさせるべく、政府に検証委員会の設置を迫ることをなぜしない(してこなかった)のであろうか。

*1:cf.「富を共有する社会システムは、ある種の財産権の存在を必然的に含蓄します。」http://don-xuixote.hatenablog.com/entry/2015/12/07/005346

*2:「狩猟採集民族であるアイヌ」がまったく植物の栽培をしていなかったのかという点に関しては、疑問も抱いているが、ここでは立ち入らないことにしておく。

*3:もっとも、加藤理事長は、「政策等への要望」の中でその項目を掲げていたにもかかわらず、「政策提案」には「文化振興等の基盤としての土地・資源の利用」として「公有地・公有林の利活用」とまでしか要求していなかった。