AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

強制移住と土地・資源(2)

 先住民族「広義の文化享受と自らの民族の生命を託してきた、いわゆる「土地と資源」が、自らが他の場所に移動することなく、居ながらにして他者に奪われた」場合、あるいは、他の場所への強制移住や他の不適切かつ不当な手段によって奪われた場合に関して、先住民族の権利に関する国連宣言には何と書かれているのであろうか。答えは同宣言を読んでもらえれば明白でもあるが、その前に、この問題についてアメリカの先住民族はどのような経験を経てきたのかを、やや古いが、手短にまとめている論文*1を参考にして概観してみたい。(先日、最初の1段落を投稿して、後で下書きに戻した論文は、本文だけで70ページを超えるものなのである!)

 アメリカ先住民族連邦政府からどのような賠償・補償(reparations)を得てきたのかといえば、大きく3つに分けることができる。1つは、インディアン請求委員会と合衆国請求裁判所を通じての賠償・補償金の支払いである。2つ目は、特定のトライブに対して土地に対する権利・権限を返還する連邦議会の立法による土地の返還である。そして、3つ目は、連邦議会またはインディアン業務局によるトライブの「承認」(「認定」とも称されている)を通じて提供されるトライブへの社会的施策である。

 最初の方法、すなわち現金による賠償・補償は、先住民族社会への長期的影響という観点から見ると、もっとも満足度が低いものであった。2つ目の土地返還は、現金支給よりも満足度は高かったが、しかし、対象となったトライブの事例は僅かであった。3つ目の方法は現在進行中であるが、これが3つの中では最も良い結果をもたらしてきた(と、トロスパーは評価しているが、「承認」/「認定」については、最近、種々の問題が指摘されてきてもいる)。 

 前にも書いた記憶がある--どこだったか探す手間が面倒なのでリンクは張らない--が、1980年代初期に、1つ目のインディアン請求委員会の活動を過大評価する書籍が、この国の憲法学者によって出版されていた。アイヌ民族の存在を政府が否定していた当時の日本の状況から見れば、そうしたくもなるであろうが、しかし、その本がアイヌ民族に何か言及しているというわけではなかった。

 いずれにしても、不当に奪われた土地に対する請求権の解決の要求は、1920-1930年代のアメリカにおいて広く存在していた。連邦政府が訴訟を受け始めた時--主権国家として、連邦政府は被告となることに同意しなければならなかった--連邦政府は、1946年のインディアン請求委員会法によって、土地の返還を禁止するという制限を設けた。また、請求する側は、所有権の証明を同委員会に提出しなければならなかった。1950年代に始まった訴訟がすべて終結したのは、1978年であった。最高裁は、先住(民族の)権原と承認された権原の区別を考案し、前者の権原に基づく賠償・補償額の裁定には金利が含まれ得なかった。すなわち、1865年に500万ドルの価値があった土地に対して、1975年の時点で連邦政府は、500万ドルを支払うというものであった。 それでも、前出の日本人学者の研究書は、請求トライブに支払われた「巨額」の賠償・補償金を賞賛していた。しかし、賠償・補償金を得たトライブの大半は、裁定の時点でトライブに登録されていた成員の間で賠償・補償金を個人ベースで分配した。こうして共有資産が一世代の賠償・補償金受領者で消費されることは、その子孫たちが受ける恩恵は、子どもと孫たちに対する親たちの個人的な行動に完全に左右されることとなった。多くの事例で、既に福祉施策に依存していた人々は、トライブに対する賠償・補償金の個人への分配金を使い尽すまで、福祉政策による支払いを停止された。トライブによっては、個人配分の伝統を生み出してしまい、それがコミュニティの発展を阻害する要因となり続けている。

 土地の代償としての賠償・補償金の受け取りを拒否し続けているトライブもある*2。他には、合衆国林野庁の土地を獲得したタオス プエブロのように、異例の措置によって土地を得たトライブもある。ホピも土地を得たが、ナヴァホは移動させられた。非先住住民の退去を必要とする土地を受け取ったトライブはない。

 トライブの主権の承認と自治政の実行が、もっとも有意義な結果を達成してきた。経済発展は、統治権限の主張に続いて起こる傾向がある。カジノの創設が、この現象のもっとも良く知られた例であるが、カジノの長期的な成功は保証されていない。(トロスパーのこの小論は1994年のものであるが、カジノがもたらしてきた諸問題については、私は既にここで論じたことがある。)他のトライブは他の産業による経済発展を確立してきたが、多くのトライブがまだ、堅固な経済を生み出すに十分な主権権限を主張することができないでいる。

 この小論は、先住民族に対する賠償・補償の経験がアフリカ系アメリカ人にとってどのような教訓を提供できるかという目的で書かれているが、最後に彼は、次のように結んでいる。人的および商業的資本への投資としての賠償・補償の狭い定義では不十分であり、先住アメリカ人の事例が推奨することは、政治的資本、すなわちトライブ政府に似たコミュニティ組織の制度への投資であるだろう。金ではそのような制度を買うことはできないし、賠償・補償の支払金の種類によっては、そのような制度の土台を崩すことになる。

 1970年代末から1980年代にかけて、土地奪取に対する賠償・補償金による「インディアン問題の解決/処理」を含めて、アメリカのインディアン政策の改革を求める先住民族――特に、上の2つ目の方法である土地の返還を求める人々――は、新たな政策規範を作らせる場を国連に求めた。その国連の過程のアウトプットとして、先住民族の権利に関する国連宣言が、いま私たちの手にある。同宣言の正当性の源には、その作成に費やされた長い年月があり、その過程に参加した世界各国からの先住民族の代表たちの数があり、そして、総会におけるその採択に賛成票を投じた国連加盟国の数がある。

 そういうことで、次回は、このシリーズの一応の締めくくりとして、「権利宣言」がどのように強制移住と土地・資源の問題を取り扱っているのかを見てみようと思うが、読者も少なくなったことだし、何も急ぐ理由はないから1週間か2週間くらい置いて寒波が去ってからにしようかと思う。

*1:Ronald L. Trosper, "American Indian Reparations," Poverty & Race, November/December, 1994.

*2:「ブラックヒルズに関しては、1980年に合衆国最高裁が同地域が不法に奪われたことを認めたが、同地域の返還は認めずに、政府に約1億600万ドル+利息の支払いを命じる判決を下した。内務省に供託されているこの補償金は利息を含めて2年前には10億ドルを超えているが、関係諸トライブは、今日なお、金銭補償を拒否し続けている。」 2012-08-24「ブラックヒルズの聖地売買に関するジム アナヤ特別報告者の声明」