AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

為政者が「国民の理解」と言うとき

 昨夏、現政権は、「国民の理解」が未熟であるにもかかわらず、「安全保障関連法案(別名、戦争法案)」を国会通過させた。アイヌ政策に関しては、「国民の理解」が根本的に必要なことをしないための単なる口実として利用されていることは、ここで繰り返し書いてきた。以下は、廃刊となってしまった『先住民族の10年News』の第154号(2009年5月9日)「『アイヌ政策有識者懇談会』の政治学入門①」からの借用転載である。

はじめに
(略)
 教科書的に言えば、法律という形である分野の政策を新たに形成するのは立法府(国会)であり、国会本会議で詳細な検討・審議を加えられない課題は、諮問機関としての各種委員会で法案の細目にわたって吟味がなされる。
 しかし近年、議員立法が増加してきたとはいえ、これまで周知のように、現実の国会委員会では多数与党が支配する中で行政官僚主導で作成された政策原案をめぐって儀式的に党派的議論が繰り広げられる傾向が強かった。そのような「いつも通りの政治(politics as usual)」の流れの中で、「大きな政府」から「小さな政府」への転換に向けて「ブレーン政治」と呼ばれる仕組みを取り入れたのが、レーガンサッチャー・中曽根の保守回帰枢軸の一角を担った中曽根元首相であったと言われている。これには、政策方針原案を政府外部の権威ある専門家に委ねることにより、党派性や官僚主導を弱めて中立性(という偽装)を確保する狙いがあった。中曽根政治の中身を支持できない層でさえ、政策形成過程に外部の専門家を組み込む手続き的形式を支持するものが、マスコミを含めて存在してきた。
 今日、この種の政治過程の外部の専門家による「○○懇談会」や「△△会議」、「××(諮問)委員会」など、さまざまな名称を冠した会議体は、雨後の筍のように乱立し、その道の専門家でなければ、実数を把握することすら困難な状況にある。指導者の政治スタイルにも影響されるが、安倍政権下では70を超える類似の会議体があったと言われている。*1
 アイヌ政策有識者懇談会は、このような流れの中に存在する多数の同種の会議体の一つである。党派性を超えた中立性を標榜し、政治過程におけるインフォーマルな有識者の会議とみなされるアイヌ政策有識者懇談会であるが、本稿では、同懇談会の政治的性格と機能を検討しながら、それがどこまで「いつも通りの政治」を超えて、既存のアイヌ政策に政治的変革をもたらすことができるのかを考えてみたい。

I.「アイヌ民族の声」報告を読んで 
(略)
 アイヌ政策有識者懇談会の政治性と密接に関係することであるが、そもそも懇談会の中でどのような意見が戦わされているのか(あるいは、いないのか)、筆者も含めて、一般の「国民」(「 」を付す理由は後述する)にはほとんど分からない。聞くところによれば、一般のアイヌの人々にも伝わっていない。前回(1996年)の「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」と比べれば、首相官邸のホームページにアイヌ政策有識者懇談会のページを設け、現地視察時に提出された意見なども含めて、本稿執筆の4月23日時点で、第6回会合までの議事次第や配布資料が入手可能になっており、懇談会会合の大まかな内容はつかめるようになっている。しかし、肝心なことは、1月21日の第4回会合以降の議事概要がすべて「準備中」となっていることである。通常、一般的な組織の会議であれば、前回の会合の議事録を確認し、それを積み上げる形で会議が進められる。外から見れば、議事録に正式に記録すべきか否かをめぐって意見の対立が有識者懇談会内部にあり、合意なく会議が進んでいるのかという印象も生まれる。さもなければ、議事録を担当する事務官僚の怠慢ということになろう――「有識者」の一員が議事録に認印を押さずにたな晒しにしているということもあり得るが。いずれにしても、この時点で情報公開は、見掛け倒しとして崩壊しつつある。
 こうして表面的に情報が公開されている中で、マスメディアの報道には独自の調査や取材に基づくと思われるものはほとんどなく、既に政治機関化したアイヌ政策有識者懇談会の座長や活動的メンバーが一方的に流す情報の再生産に加担している。
(略)

1. フロアからの質疑応答 
 「アイヌ民族の声」報告で非常に興味深かったことの一つは、フロアからの意見である。
 a)「国民のコンセンサスを得られないと先住民族の権利回復は難しい。」
 b)「あまり厳しい注文を出さず、段階的に実現できる方向にもっていくべきだ。」
 アイヌ政策有識者懇談会に限らず、よくある反応である。「民主主義」を重んじる人にとって、一見、美しく、もっともらしく響く。確かに、共に生活している人々の理解と支持と協力がなければ、回復した権利の行使は困難かもしれない。しかし、権利を承認することで「回復」することも困難であろうか? この「国民(のコンセンサス)」も、鶴見俊輔氏の言葉を借りれば、「お守り言葉」であろう。「国民」の側にいる者にとって、何と心地良く響く言葉であろう。「国民のコンセンサス」を得るには、長い、長い時間が必要である。仮にそれが実現しても、今の「国民」の側にいる者は、政治的社会的変革から生じる代償を支払うことはないかもしれない。「国民のコンセンサス」に多くの日本人が、安心してホッと胸を撫で下ろすのである。
 「国民のコンセンサス」は、アイヌ民族の権利支持に向かえば、もちろん理想的であろう。この言葉も、後述する「国民の理解」も、いかに反アイヌ民族の偏見がこの国に広く深く充満しているかという現実を物語り、それに対する憂慮を反映してもいる。しかし、25年前の1984年に北海道ウタリ協会が「アイヌ新法案」を社会に公表した時も、87年に同協会が民族の同権と差別撤廃を求めて国連の「先住民に関する作業部会」に参加した時も、93年の「国際先住民(族)年」とそれに続く第1次・第2次「世界の先住民(族)の10年」の間も、「国民のコンセンサス」は、アイヌ民族の願望と要求を阻止し、政治的な現状を維持するための「お守り言葉」として唱えられてはこなかっただろうか。そして恐らく、その念仏を唱える人々は、10年後も、20年後も、同じように唱えているであろう。その間、「国民のコンセンサス」は、砂漠の中の蜃気楼のように、行けども行けども辿り着かず、政治的変革というアイヌ民族にとっての命の水は手に入らないのである。
 ここに挙げたもう一つの発言(b)は、インクリメンタル(緩やかに上乗せ的で微調整的)な変化を求めるという点で同種の政治的意味合いをもつ。紙幅の都合で詳述は避けるが、アイヌ民族の権利の回復は、彼・彼女らに特別に新たに権利を与えようというものではなく、奪われた権利の帰属をはっきりさせようというものである。身近すぎる例を挙げると不適切な場合も起こり得るが、例えば、ある人が別の人の土地と家に押し入り、居座ってしまった。元の所有者に、何となく不正があったみたいだけど、今居座っている人の生活もあるから、車庫や現在使っていない部屋から一つずつ長い年月をかけて返しましょうとか、あるいは、その例があまりに示唆的で想像力に刺激を与えすぎるとすれば、AさんがBさんから1万円奪い、その1万円はBさんのものだけど、それがどのように「取得」されたのかがはっきりするまで、一度に1万円返せとは言わないで、年に100円ずつ返したら正義が得られるでしょうと言っているようなものではないだろうか。
 「国民のコンセンサス」を理想として語るのであれば、有識者たちに「先住民族の権利宣言を全面支持する」と答申に盛り込むように、「理想」を語って何がいけないのだろうか。「厳しい注文」ではなく、それが「当然の注文」のはずである。北海道アイヌ協会の今の注文のように穏健な要求が、「先進国」と呼ばれる国々の先住民族の要求を見ても、どこにあろう。この国の「国民」は、アイヌ民族がどこまで「注文」を下げれば、受け入れるのだろうか。所詮、アイヌ政策有識者懇談会の「答申をどのように活かして(あるいは骨抜きにして――筆者加筆)政策を考えるかは政府側にあずけられる」のだ。

c)バックラッシュと「国民が理解できる文書」 
 「なぜアイヌだけが優遇されるのか」。インターネット上の書き込みなどを見れば、確かに、この種の無知と妬みによる意見は、最近徐々に増えているように感じている。昨今の不況の世の中で、予想されたことではある。しかし、それが「国民」のどれだけの割合を占め、どれだけ強く持たれている意見なのかは、容易に把握できない。
 この種のバックラッシュ(反動的・差別的反撃)は、部落差別と解放運動やアメリカの黒人解放運動の歴史を紐解くまでもなく、権利と権力を剥奪されているという意味でのマイノリティの解放運動につきものであり、差別と偏見が充満した社会では避けては通れない。アイヌ民族が、某政党の党首のように、足元を掬われないようにして、怯むことなく毅然として立ち向かうことを願っている。
 そのような状況ゆえに、アイヌ政策有識者懇談会は、「国民が理解できる文書」に基づく答申を目指しているとのことである。この場合、「国民」は、「有識者」たちが味方につけないといけない観衆である。これについては、次回もっと詳しく述べようと思うが、ここでは、アイヌ民族の抱えている問題とその解決策について、「有識者」たちは理解しているけれども、一般の「国民」には理解できない難しい問題を含んでいると示唆しているのであろうか。さすがに「有識者」である。マスメディアを含めて、「国民の理解」を持ち出す人々は、そこで持ち出される「国民」に自分を含めてはいないことが多い――暗に、「自分の理解」と言うことを恥じての場合もある。
 しかし、「アイヌ民族の声」報告には、「アイヌについての知識を持っている委員と知識を持っていない委員がいる」ことも触れられている。有識者懇談会内部でコンセンサスが得られずにいて(冒頭の議事概要の遅延ともつながる)、懇談会内部での理解を得るために「国民の理解」を持ち出してはいないのか。有識者懇談会内部で理解とコンセンサスが得られないということは、「有識者」たちにとってタブーである。彼・彼女らは、大きな異論を含まない答申で合意しなければならない。それがなければ、有識者懇談会そのものの政治的正統性と権威を損ないかねないからである。
 複雑な事象に分かりやすい説明を求め、自分自身は理解のための努力を怠るという傾向は、現代日本社会に広く蔓延した問題であると、筆者も認識している。しかし、「分かりやすさ」と引き換えに答申内容の質を下げることは許されない。仮に、有識者懇談会が「分かりやすさ」を求めるのであれば、「民族/人民の同権と不差別・平等の原則に基づき、アイヌ民族は、他の民族/人民と同等の権利を享有し、その中には民族/人民の自己決定の権利が含まれる。その権利に基づき、アイヌ民族は、自らの政治的地位を自由に決定し、その経済的・社会的・文化的発展を自由に追求することを承認する」とすれば、非常に分かりやすいのではないだろうか。                     
                                                  (続く)


P.S.(2016.03.06, 00:01):上の続きに当たる部分を『先住民族の10年News』の第155号(2009年6月13日刊)の「『アイヌ政策有識者懇談会』の政治学入門②」から借用転載しておく。「強制移住と土地・資源」の(14)・(15)を書いた後で読み直すと、結構おもしろい。

 KNOWING and BEING are opposite, antagonistic states. The more you know, exactly, the less you are. The more you are, in being, the less you know. ―D. H. Lawrence 
 知ることと人として在ることは、正反対の、敵対する状態である。より多くを知れば知るほど、まさに、人はより非人間的な存在になる。より偉大な存在になればなるほど、より少なく知ることになる。(筆者訳)[D. H. ローレンス]*2
 We are more than the sum of our knowledge, we are the products of our imagination.
 私たちは、私たちの知識の総計以上の存在である。私たちは、私たちの想像力の産物である。 
 
                        ―北米先住民族の古い格言(筆者訳)


d)「アイヌのことを知らない」有識者
 (略)まずは、前回論じ残した点から取り上げよう。
 「アイヌ民族の声」シンポジウムで有識者懇談会の佐々木利和氏は、「[加藤忠氏]ほかはアイヌについての知識を持っている委員と知識を持っていない委員がいる」が、「加藤委員が発表したアイヌ民族からの政府への要求事項を各委員はかなり重く受けとめている」のに対し、「現地視察でのアイヌ民族からのシビアな意見を特にアイヌのことを知らない委員が厳しく受けとめている」と述べている。また、「法律をつくっていくのは法学者の意向が強く反映されることを改めて感じている」とも語っている。*3
 「アイヌのことを知らない」でアイヌ政策「有識者」を誰が名乗っていると見ているのか、直接お尋ねしてみたいものだが、当然、自らは「知識を持っている」側に分類していると思われる。「厳しく受けとめている」という意味が明確には分かり難いが、視察で得たアイヌの意見が「答申」に盛り込むべき重要な課題を提起していると受けとめているという意味だと推測できる。そうするとそこから、筆者も含め、有識者懇談会の蚊帳の外にいる一般人にも、懇談会内部の政治的構図がぼんやりと浮かび上がってくる。
 すなわち、8名の「有識者」のうち3名の法学者(佐藤幸治、安藤仁介、常本照樹)の全員か一部が「答申」作成を主導しており、残り5名の意向は、あまり「強く反映され」ていない。一方、「アイヌについての知識を持っている委員」というのは、緩やかな基準で見て4人(加藤忠、佐々木利和、常本、高橋はるみ)であろう。この分類が妥当であれば、アイヌ民族に物理的に最も近い位置にいて、有識者懇談会の中で実質的な鍵を握る人物は、常本照樹氏ということになる。その意味で、彼が有識者懇談会誕生前後から北海道各地で精力的に行っている講演での発言内容を吟味すれば、有識者懇談会がどこへ向けて舵を取ってきたかが大まかに見えてこよう。これは、先で行うことになるが、もう一つ、佐々木氏の発言から、現地視察でのアイヌの意見は「答申」には「強く反映」されず、北海道アイヌ協会の要求事項に沿って議論が進み、その中からどれを最終結論に盛り込むかで、有識者懇談会で凌ぎが削られていると推測できそうである。
 しかし、一般人にしてみれば、当然、疑問が湧いてくる。この国の歴史にない新たな「アイヌ政策のあり方」を話し合い、将来への道筋をつけようという有識者懇談会に、「アイヌのことを知らない」出席者がいるというのはどういうことなのだろうかと。筆者が知る北海道アイヌ協会の幹部の一人は、「有識者懇談会と言うけれど、[彼・彼女らは]アイヌのことを知らない無識者だ!」と言ってはばからない。これもまた、後ほど詳しく見ていく必要があるが、「有識者」たちの言う「国民」とアイヌ民族の双方を納得させるために有識者懇談会が必要とする(見せ掛けの)代表性や利益の代弁者と関係していそうである。
(略)

*1:2006年12月現在で「国の審議会等の総数は110」、「審議会等の傘下にある分科会・部会」は計800以上存在していたと報告されている(西川明子「審議会等・私的諮問機関の現状と論点」『レファレンス』平成19年5月号、61ページ)。

*2:Studies in Classic American Literature(Middlesex, England: Penguin Books, 1971), p. 121

*3:本誌第153号、2-3ページ。[下線]は筆者による。懇談会は、法律を作ったり、「答申」を出すための会合ではない。政府見解:「私的諮問機関は『出席者の意見の表明又は意見の交換の場に過ぎない』」。西川明子「審議会等・私的諮問機関の現状と論点」(前号掲)、4、62ページ。次節で詳述する。