AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

「遺骨・DNA研究と先住民族――人体組織は誰のものか」

 『先住民族の10年News』第190号(2012年12月)より「「遺骨・DNA研究と先住民族⑦人体組織は誰のものか」を転載する。

III.10.人体組織は誰のものか

私たち(インディアン)にとって、私たちのどの部分も神聖です。科学者は、それは単にDNAだと言います。インディアンにとって、それは単にDNAではありません。それは、一人の人間の一部です。それは、深い宗教的意義をもつ神聖なものです。それは、一人の人間の本質の一部なのです。
  ――フランク C. デュークプー(Lobb: 104)

 前号の胎盤の事例のように、研究における人体組織の取り扱いには、個人だけでなく、個人が属する社会や文化がそれに付与する意味に対する尊重が重要となる。「バイオテクノロー革命」が急激に進むにつれて、人体組織試料の取得、利用、市場での流通、保存試料の集団遺伝学研究への利用、研究成果の特許化の可能性などに対する関心が、先住民族だけでなく人類社会全般に関わる問題として広がってきている。社会的関心が広がる中で、科学者および支配的社会と先住民族との間に存在する人体組織の価値と意味の隔たりが、明瞭に認識されるようになってきた。ナヴァホ ネーションの遺骨返還要求訴訟(本誌第181号)やハヴァスーパイ事件において、研究者や研究機関と先住民族との間で遺骨や血液が持つ意味が明らかに異なっていた。アイヌ民族の遺骨をめぐる問題の根底にも、遺骨をDNA抽出や形質学的分析のための単なる研究対象物(材料)や情報源としか見ない遺伝人類学者や自然人類学者とあくまでも死者の全体性に不可欠な一部とみなすアイヌとの間に、人体組織がもつ意味や身体観の対立が存在している。


a.科学者にとっての人体組織
 科学者にとって、人体は操作したり、顕微鏡の下で分析したり、試験管の中で増殖することが可能な1セットの部品の集合体であるとみなす「機械的な人体観」が存在する。科学的分析のために対象は細分化され、その辿り着いた先が細胞であり、分子であった。その一つの究極が遺伝学において到達され、遺伝学は、人体の最小単位に焦点を当て、それを人体全体から、そして社会的文脈――時間と場所――から切り離して分析・評価する。「世界は分けてもわからない」にもかかわらず、分子人類学者は、宿命的に分けて研究を続ける(福岡)。現代の自然/遺伝人類学では、「操作され、評価され、製品に転換され、そして増殖される、まさにその物体がDNAそのものである」(Andrews and Nelkin: 53)。自然人類学者がDNAから必要とするものは、情報であり、知識である。骨から得られる「古代DNA」も、生体の血液などから得られるDNAも、人体組織はすべて、科学にとっては単なる物質にすぎず、情報や知識を得るための材料であり源でしかない。
 こうした人体観をもつ病理学者たちは、同意の取得なく組織試料の分析を日常的に行っている。 研究者は、人体組織の出所である人々と恩恵を分かち合うことなく、人体組織の商業化さえ試みることがある。人体を物象化することで、研究者たちには、身体の一部を提供した人々を「ほとんど略奪的忘却」の対象として気兼ねすることなく、「人体組織を抽出し、利用し、特許化することが可能となる」。人体組織の「鉱脈」探査は歴史上の「身体略取」の現代的形態であって、人体は、科学者にとって「抽象的物象、プロジェクト、採掘されるべき一資源」なのである。(Ibid.: 54)


b.人体組織の社会的・文化的意味
 一方、人体組織には重要な社会的・文化的意味がある。「途上国」と「先進国」とにかかわらず、血液、毛髪、胎盤などが社会的儀式において重要な役割を果たすところがある。そのような人体組織をいかに取り扱うかは、社会のアイデンティティを規定したり、社会で受容される行動を支配する社会の価値観や規律を強化しもする。従って、人体組織の遺伝学的分析が共同体のアイデンティティを露にしたり、それと対立する場合に微妙な問題が持ち上がることは、ジェノグラフィック プロジェクトやハヴァスーパイ事件を取り上げた際に言及した。人体組織の分析によって、個人が、好むと好まざるとにかかわらず、ある家族、人間集団、文化、あるいは性別の一員として、特定の遺伝的基準に基づいて認識されることがあり得る。従って、匿名の下であっても、結果が自らの所属集団にレッテルを貼ったり、汚名を着せたりすることになり得るために、中には自分の人体組織を、例えば、「人種と知性」、「人種と犯罪」、「性別と数学の能力」などの研究に用いられることを拒否する人もいる。人体組織の利用を統制できるか否かは、「宗教的アイデンティティを確立して、宗教的信仰を実行するため」にも決定的に重要となる。(Andrews and Nelkin: 54-55)
 対象を細分化し続けるデカルト以降の近代科学の世界観に対して、「伝統的」先住民族の世界観はホリスティックである。そこには、身体性・精神性・霊性という3つの領域からなる「小宇宙としての人体」観が存在する。1980年代前半にカナダで起こった「ヌーチャヌルス(Nuu-chah-nulth)事件」(注1)に関して、UBCの臨 床遺伝学者、ローラ アーバー博士は、次のように語っていた。

[先住民族と科学者が]お互いを知って、科学的・文化的問題を理解することがとても大切です。これらの研究者たちは、DNAは単なるDNAではなく、多くの先住民族共同体ではDNAが巨大な精神的/霊的重要性を持っていることを理解しなければなりません。(Wiwchar)

 1995年にユネスコの国際生命倫理委員会(IBC)が出した「生命倫理とヒト集団遺伝学研究」と題された報告書は、次のように結論している。

 研究に長いこと浸透してきた科学的・哲学的伝統は、集団遺伝学にもまた存在している。科学における優勢的な態度は、研究は本質的に善であるというものである。それゆえ、もし適切に説明されて理解されれば、参加は当然得られるべきものであるとなる。しかしながら、コミュニティや人間集団には、理解され、そして尊重される必要がある、それ独自の文化的伝統や歴史がある。さらに、ヒト集団遺伝学は、ただ単に、遺伝学研究によって既に提起されている個人の倫理や法律的な問題の掛け算ではない。研究されているそれぞれの 集団には、そしてどの集団内の個々人の間においてさえも、異なる関心事や伝統が存在している。情報、協議、そして協力の度合いは、参加者におけるそのような相違を反映しなければならない。同様に、社会的な意味合いだけでなく、研究者および地元と国の当局の役割と責任もまた異なってくる。(UNESCO: 22)

 1980年代初頭に、獣医であった海馬沢博氏は、北海道大学に次のような要望を行っている。

アイヌ民族伝統の先祖、死者、墓に対する考え方を考究されその伝統を傷つけぬ方向を見出して頂きたい。(北大開示文書研究会公開文書、No. 20)

わずか一文であるが、これは、人体組織の文化的意味の尊重を重視する今日の研究規範に合致する要請ではないだろうか。


c.「貸与中のDNA」
 さらに、カナダ先住民族の人体組織の研究利用に関する研究は、「先住民族の個人と共同体をその文化の中で尊重」することの重要性を指摘し、「その価値観と整合する研究の関係が不可欠である」と論じている。この尊重は生物試料の利用にも当てはまり、DNAは、同意が取得された後も研究者の所有物となるのではなく、その研究の目的のために研究者に「貸与中」であるとみなされるのである。アーバーとクックは、次のように論じる。

そうではないと明記されていない限りは、先住民族共同体における研究のために受け取られたすべての血液および組織は当該提供者/共同体の継続的財産、すなわち、研究者に対して「貸し出し中」であると考えられなければならないということが提言される。こういう方法で、個人および共同体(あるいはその指名者)が、生物試料の将来の取り扱いと利用を決定する能力を保持するのである。かくして、「貸与中のDNA」という考え方は、研究者と先住民族共同体の双方にとって重要な概念となる。研究者はいまや、同意された研究の目的のためにDNA(あるいは他の生物試料)を保持する財産管理人となる。所有権は、指示された通りに、参加者または共同体にとどまる。この概念は、誤解の余地を残さない。研究者には、たとえ個人の識別子が外されても[=匿名化されても――筆者]、個人、共同体、または指定された者の同意なしに勝手に試料を利用する自由はない。

「貸与中のDNA」という考え方は、究極的には先住民族自身によって管理運営されるDNAバンクの可能性も含んでおり、先住民族社会に対する尊重には、「研究用試料の利用をはじめとする研究過程における自己決定権を行使するという共同体の欲求の考慮」が含まれるのである。(Arbour and Cook:153 and 155-156)
 この「貸与中のDNA」という視点から読むと、 海馬沢氏は、もう一つ非常に興味深い指摘を行っている。

故児玉教授が当時1,500体に及ぶアイヌ人骨を収集したのは、人類学上アイヌ民族を人骨骨格から解明するためのものであり、一連の研究がすめば返却する意思があったと推察出来る。(上掲文書。強調は、筆者による。)

遺骨はとうてい尊重と同意に基づいてアイヌの側から「貸与」されたものではないが、児玉自身に遺骨が一時的に借用中であるという認識があったと「推察」している。海馬沢氏にとって、遺骨という人体組織の所有権は、決して児玉や北海道大学の手に移ってはいなかった。


11.人類学者と医学者の反省
 アイヌの遺骨「収集」(=奪取)に関して、アイヌ政策有識者懇談会で篠田謙一は、内容をぼかしながらも、次のように述べている。

残念ながらアイヌ人骨の中にはそのような手順[収集の目的、意義の説明=筆者注]を経ずに集めた人骨がかなり混ざっています。これは人類学者としても率直に反省しなければいけない点だというふうに思っています。(有識者懇談会第5回会合「議事概要」)

遺骨奪取はもっと露骨な「暴力」的形態を取っていた(cf. 植木、前掲書)。篠田はそれを「過去における人骨の収集方法には今の基準で考えて適切ではないものもありました」と述べているが、それは「今の基準」だけでなく、当時の刑法に照らしても「適切」ではなかった。同じように、アイヌの血液やDNA試料の採取と利用が当時の研究基準に照らしても適切ではなかったと十分に思わせる報告が、当事者の人類学者自身によって残されている。人体組織試料の採取と利用には、試料の採取源である人々に採取の目的や意義を十分に説明していないだけでなく、医学的研究という偽装(虚偽説明)の下に行われてきたものがある。研究がどのように進められ、研究からどのような成果が期待でき、それが将来どのような影響を採取源である人々にもたらすのかなどを研究者が真摯に説明した形跡は見受けられない。
 有識者懇談会での篠田の発言は、もちろん「アイヌ人骨」に関してであったが、アイヌの血液やDNA試料がその源である人々からの適切な同意を得ずに採取・利用・保管されてきたとすれば、「反省」は、遺骨の略奪に対してのみならず、血液やDNAなどの他の人体組織試料搾取に対しても行われなければならない。その上、「率直に反省しなければいけない」人々や機関には、「人類学者」だけでなく、一部の医学研究者やその所属機関と資金提供者も含まれねばならないようである。
 人体組織試料の採取・利用を行った医学・人類学研究者が正当な手続きを行っていたと主張するのであれば、その証明の責任は研究者自身にあり、人体組織試料採取に関する実際を率先して公表するべきである。盗掘された遺骨の遺伝学的研究を求める前に、「歴史の解明」をするという研究者自らが「人類学等の調査研究」の「歴史の解明」を開始することが課題であろう。
 上で見たように、血液は、医学・人類学者がみなすような「単なる血」ではない。しかし、これまで半世紀以上にわたって、社会には目立たない形で、医学や人類学の研究でそのような考えに基づく先住民族の人体組織試料の取り扱いが続けられてきた。人体組織試料は、研究者たちが保有し、他の研究に利用したい研究者に分与されてきた。ここに支配的な前提は、血液などの人体組織が一旦体外へ取り出されれば、それはもう研究者のものという考え方である。そして、この態度は、例えば、墓荒らしまでして先住アメリカ人の骨という「物体」を「取得」して回った19世紀から20世紀の人類学者と人類学の伝統を踏襲するものであったとジョナサン マークス(Jonathan Marks)は指摘している。マークスは、次のように続ける。

最終的に、骨は博物館科学者の管理下に置かれ、しばしば、実際にその骨の親類縁者である人々の細やかな感情に配慮することなく、それらの骨を獲得したり、あるいは分析する多くの学者たちの経歴を積むために利用された。それは、強力な国家の代理人たちが無力な人々に対してほとんど配慮せずに行動する、典型的な植民地主義事業であった。(Marks, 2008: 2)

この指摘はそのまま、今日のアイヌ民族の遺骨と人体組織試料に関係する日本の人類学とその研究者にも当てはまるであろう。(注2)


(注1)ブリティッシュ コロンビア大学(UBC)のリチャード ウォード博士が、関節痛とリウマチの研究という名目でカナダ保健省から33万ドルの助成を受け、883人のヌーチャヌルス人からそれぞれ30mlずつの血液を採取したことに端を発する事件である。ウォードによってオックスフォード大学に移管されていた血液は、2004年1月にUBCまで返還された。
(注2)2011年のアメリカ国立衛生研究所主催のシンポジウム、「ヒトゲノム配列の10年」(http:// www.genome.gov/27542738) での講演の中で、ニューヨークタイムズのA. ハーモン記者は、ハヴァスーパイ事件が古い過去の出来事で、グランドキャニオンの底に住んでいる教育を受けていない住民集団に関わった一人の研究者の特殊な問題として退ける科学者たちの反省のない態度を紹介している(Harmon)。マークスは、同事件の中心人物であったT. マルコウは血液が一旦先住民の体外に取り出されたら科学(者)のものとみなす態度、すなわち、「先住民の体からの科学的物体としての血液の収集における確立された伝統にただ従っていただけである」と指摘している(Marks, 2010: 4)。リアードンとトールベアも同じ点を指摘し、科学者に対する教育の必要を説いている(Reardon and TallBear)。


参考文献(今回初出分のみ):
福岡伸一『世界は分けてもわからない』(講談社、2009年)
・Arbour, Laura and Cook, Doris. "DNA on Loan: Issues to Consider when Carrying Out Genetic Research with Aboriginal Families and Communities," Community Genetics, 9 (2006).
・Harmon, Amy. "The Public Place in Personal Genomics - Amy Harmon" (YouTube、URL省略).
・Lobb, Nancy. 16 Extraordinary Native Americans, 2nd ed. (Portland, ME: J. Weston Walch Publishing, 2007).
・Marks, Jonathan 2008. "Human Genome Diversity Studies: Impact on Indigenous Communities," Encyclopedia of Life Sciences, online ed. (Chichester: John Wiley & Sons, Ltd.).
・Marks, Jonathan 2010. "Science, samples and people," Anthropology Today, Vol. 26, No. 3 (June 2010).
・Reardon, Jenny and TallBear, Kim. "'Your DNA Is Our History': Genomics, Anthropology, and the Construction of Whiteness as Property," Current Anthropology, Vol. 53, Supplement 5 (April 2012).
UNESCO doc. "Bioethics and Human Population Genetics Research"(CIP/BIO/95/ CONF.002/5), November 15, 1995.
・Wiwchar, David. "Nuu-chah-nulth blood returns to west coast," Ha-Shilth-Sa, Vol. 31, No. 25 (Dec. 16, 2004).


 ところで、関心ある読者は既にご存知のことと思うが、北大開示文書研究会が最近、これまでの活動を1冊にまとめた『アイヌの遺骨はコタンの土へ―北大に対する遺骨返還請求と先住権』(緑風出版)を出版しているので、この機会に紹介しておこう。

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