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AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

『朗読者』より(「黙殺」と「集団罪責」)

 直前の投稿に「黙殺」という言葉を入れたので追記を入れようと思ったのだが、長くなったので別記事とする。

 最近読んだベルンハルト・シュリンク『朗読者』(新潮社、2000年)の中に、こういう一節があった。

黙殺というのは、数ある裏切りのヴァリエーションの中では、あまり目立たないかもしれない。外から見るかぎり、黙殺なのか謙遜なのか、配慮しているのか、気まずさや立腹を避けているだけなのかわからないだろう。しかし、黙り続けている当人は、はっきりとその理由を知っている。そして、この黙殺行為は、派手な裏切りと同じくらい、二人の関係の基礎を揺るがすものなのだ。
(『朗読者』、p. 73。)

 以前(2013年6月14日)、「唸る英訳」という記事の中で「黙殺」について書いたことがある。(古くからの読者は、覚えてくれているかもしれない。)後半部分がセンシティヴな問題を含んでいるので、ここには転載しなかった。前半だけ、再掲しておく。

 もう半世紀以上も前に出版された本であるが、私が読んだのは30数年前である。この本でポツダム宣言に対する「黙殺」決定の「誤訳」事件を知った。Robert C. Butow, Japan's Decision to Surrender (Stanford Univ. Pr., 1954)

 もっと手軽にこの件について読めるものとして、鳥飼玖美子『歴史をかえた誤訳』(新潮社、2004年)を挙げておこう。

 もちろん私は、その「誤訳」は原爆投下の背景の一つの要素であっても、それが決定的な原因と考えているわけではない。

 『朗読者』は、毎日出版文化賞特別賞を受賞したと帯に書かれている。「訳者あとがき」によれば、ドイツでは1995年に出版されて大ヒットとなり、「発売後五年間で二十以上の言語に翻訳され」、アメリカではThe Readerのタイトルで「二百万部を超えるミリオンセラー」となったそうである(p. 209)。そのような作品だから、読者は既にご存じかもしれない。こういう作品を翻訳することができる翻訳者は幸せだなと、率直に思う。そして、こういう作品を読んだ後は、暫くこういうブログを書けなくもなるのである。
 この作品は2008年には映画化もされ、映画もかなり話題になったようである。インターネット上で無料視聴できるサイトを見つけたが、登録が必要なので、ここには紹介しないでおく。その代わり、YouTubeここで、画質は良くないが全編を観ることができるので、紹介しておく――但し、英語版である。振り返ってみると、映画化された小説などを映像と文字の両方で鑑賞したことは、あまり記憶にない。この作品に限って言えば、内容的に本の方がはるかに優れていると言ってよいだろう。
 2000年――何をしていたのだろう? 腐敗した理事会の下で大学の改組とか改革とかで忙殺され、小説どころではなかったか。2008年――どん底の状態にいた。悲しいかな、映画どころではなかった。
 そういうわけで、この作品を知らなかったのであるが、少し前に読んだ五木寛之の『人間の運命』(角川書店、2013年)の中で紹介されていたので、古本店にあったのを買っておいた。(どちらも、5冊100円の時だった。)『人間の運命』は、パラパラとめくった時に『蟹工船』と金子みすゞの詩を対比した箇所が目について、その頃に翻訳していた論文のテーマと関連する部分があったので使おうと思って買ったのだが、結局、使わなかった。(翻訳したものをまとめ直す時には使えるかもしれないと考えている。)

 明日は(もう今日だ)特別な日だというのに雨の予報だからと、遅くまで書いてしまった。最後に、もう一節、引用しておく。

 集団罪責というものが道徳的・法律的にどのような意味を持つにせよ、そのころ学生だったぼくたちの世代にとっては体験を伴う現実だった。それは、第三帝国時代に起こった出来事にのみ当てはまるわけではなかった。ユダヤ人の墓石にハーケンクロイツが落書きされたこと、昔ナチ党員だった人々が戦後も裁判所や行政部門や大学などで出世したこと、ドイツ連邦共和国イスラエルを承認しなかったこと、ナチに順応した人々の生活に比べて亡命者や抵抗運動についての記録があまり伝えられていないこと――戦犯が明らかにされているとはいえ、こうした一連の状況をぼくたちは恥ずかしく思った。責任者を指さすだけでは、恥ずかしさは消えない。しかし、責任者を示すことで、恥じる者の苦しみを克服することはできた。責任者の糾弾は、恥じる者の苦しみをエネルギーに、行動に、攻撃性に置き換えた。

(『朗読者』、161-162ページ。)