AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

インディアン再組織法(IRA)

 どこか他所で"IRA"を目にしたという読者へ。

●インディアン再組織法と制約された自治
 今日のインディアン トライブの構成員資格剥奪の問題をより広い視野で理解するために、連邦インディアン政策と法における歴史的に重要な出来事を概観しておくことは有益であろう。今回は、1934年制定のインディアン再組織法(IRA)(注1)を取り上げることにする。本誌第200号の拙稿「インディアン トライブの憲法改革」でも簡単に触れたが、制定から80年になるIRA は、今日まで最も包括的な連邦インディアン法の一つであり、構成員資格を決定するインディアン トライブの自治の諸権限およびトライブと連邦政府との関係などを規定している。ここでは、トライブの自治、特に連邦政府との政治的関係の根幹にあるトライブの憲法に関するIRA の規定を中心に見ておきたい。
 『合衆国法典(U.S. Code)』の第25 巻は現行インディアン法を集成している巻であるが、その§476(IRA の§16)が「インディアン トライブの組織、憲法と附則およびその修正条項、特別選挙」を扱っている。§476 は、「同じ保留地に存在するいかなるインディアンの単一または複数のトライブも、自らの共通の福利のために組織化する権利を有し、適切な憲法と附則、およびその修正条項を採択することができる」とした上で、憲法や附則が効力を発するのは、内務省長官が定める規則の下で「同長官によって認可されかつ実施される特別選挙で」トライブ構成員の成人の過半数によって承認され、さらに、「同長官によって承認される」場合であると規定している。また、内務省長官が認めた憲法や附則も、採択と同じ方法で行われる選挙によって廃止することが可能とされてもいる。さらに、§476では「トライブ主権」についても述べられており、「各インディアン トライブは、本セクションで明記されている手続き以外の手続きの下で統治文書を採択する固有の主権権限を保持する」と明記されてもいる。
 IRAを受け入れるかどうかのインディアンによる住民投票は、保留地のインディアンが連邦法に対する賛否を投票で表明する史上初の出来事であった。投票による意思表明までの期間は1 年とされたが、1935年に議会がもう1年延期した。結果は、2年間で258の選挙が行われ、IRA の受諾が181トライブ(12万9750人)に対し、拒否が77トライブ(8万6365人)であった。しかし、投票方式には少なくとも3つの大きな問題が組み込まれていた。
 1つは、インディアン有権者の多数が反対しなければ、すなわち投票に棄権しても、IRAに賛成とみなされた。主に「純血」で、旧来の独自の政府形態を重んじるインディアンは、投票のボイコットによって反対の意思を表明する戦術を採るという、結果から見れば、過ちを犯してしまった。これが、僅差でIRAを批准したトライブの数を増やすことにつながってしまった。
 2つ目の問題は、複数のトライブやバンドが歴史的経緯から1つの保留地に存在している場合にも1回きりの投票しか許されなかったことである。それぞれのトライブ間の関係を無視して、当時まだ存在していたものもあるそれぞれのトライブの歴史的な統治構造を壊して、単一憲法による政治組織の創出に賛否が問われた。
 3つ目として、土地が先か、政府が先かという順序の問題があった。IRA の下で内務長官は、余剰地や狭小な土地をまとめて、土地のないインディアンに移譲する権限を認められている。そこで、トライブは憲法を採択する前に土地を保有している必要があるのか、憲法を採択した後で土地の移譲を得られるのかという問題が生起した。この問題は、連邦政府による承認を得られていない保留地のないインディアン トライブにとって、今日まで尾を引く問題となった。
 いずれにせよ、今日、333のトライブ憲法のうち約250が完全に、あるいは部分的に、IRAに基づいて作成されている。
 インディアン戦争終結後に保留地の支配と管理は戦争省(War Department)から内務省のインディアン業務局(BIA)に移り、保留地ではBIAの現地係官(インディアン エージェント)による専制が日常的であった。IRAは、そのような専制から選挙によって選ぶ評議会型の政府へと大転換をもたらした。ドーズ法以後の半世紀で初めて、インディアンが自分たちの政治的リーダーを選ぶことが可能となった。しかし、トライブの成文文書作成の出発点としてBIAが主導して作成した地方自治法人モデルの新たな評議会式政府は、能力と英知を構成員から認められた賢明な長老たちの評議会から助言を受ける民主的な評議会とは大きく異なるものとなった。IRA以前のトライブの多彩な政府形態をここで一般化することには無理があるが、1つの例として、スー ネーションが歴史的に維持してきた旧来の評議会政府では、トライブのすべての決定は長老たちの評議会が全員一致で合意しなければならず、さらにその決定を成人男性に強制することはできなかった。
 前世紀からの土着の政治組織の崩壊の度合いが激しかった状況での慣れない西洋的憲法のアプローチの押し付けに対して、BIAモデルを修正して新しい政治組織の輪郭を定めようとしたトライブも中にはあったが、独自憲法の起草は困難であった。すべての憲法が発効する前に内務省長官の承認を議会が課したことと、実用性よりも同質性が美徳となってしまったことから、ほとんどの場合においてBIAのモデル憲法をトライブが最終産物として受け入れたことは驚くべきことではなかった。
 憲法採択後の修正についても同様に内務省長官の承認が必要であり、長官はトライブの附則から法律顧問の選抜、土地利用規則や刑事・民事規則、その他、トライブ評議会の活動のあらゆる側面で認可または拒否の権限を保持しており、トライブ憲法の運用におけるBIAの「専横的存在」は、その後も続くこととなった。憲法改革を進めているホワイト アース(WE)のヴァイズナー議長によれば、WEの憲法には「何かをするために内務省長官からの許可を求めることについて約27カ所の言及がある」。トライブの多くにとって新たな「自治」の形態への適応は、インディアン社会に適合していた「歴史的伝統と不文の慣習と価値観からの転換を意味」しており、トライブはますます「白人の法律主義的政府観」を取り入れていくことになった。


IRA/BIA 憲法下のトライブ政府
 今日のトライブ政府の組織形態の単純な一般化もここでは無理であるが、アラスカとハワイを除く48州でIRAの下で憲法を採択して機能しているトライブの政治機構を大まかに把握しておくこともまた、後の議論に有益であろう。
 IRA憲法モデルを採用したトライブ政府組織の典型は、権力が評議会に集中していることである。まず、「ビジネス委員会」と称するトライブもあるが、多くは「トライブ評議会」が立法機能を有している。評議会は、トライブの規模に応じて、大体5人から18人の議員から構成されている。IRAを受け入れなかったナヴァホ ネーションの評議会は88人から成り、また、モンタナ州のクロウ トライブは、総評議会(General Council)政府方式を採っていて、代議制ではなく、タウンミーティングのような直接民主制を採用しているユニークなトライブである。クロウ インディアンは、BIAによるモデル憲法採択の強要を拒否した。一方、ナヴァホの場合、IRA以後はBIAの監督官が評議会の会合で議長の横に座ることが義務付けられているということである。議員の任期は、1 期が2〜4年である。
 既に述べたように、トライブ評議会の権限は、内務省とBIAの指導の下にあり、これが「非常に実質的な制約」となっている。BIAは、特に近年、この権限をあまり頻繁に用いることはないが、最終的な発言権を有しているということだけでトライブの行動を型にはめるのに充分な機能を果たしている。ただし、インディアン トライブに対する連邦政府の「絶対権」は連邦議会に在り、内務省のこの権限の源がどこにあるのか明確ではなく、トライブは、固有の主権と条約を根拠に連邦政府と交渉可能なのである。実際、1973年のウーンディド ニー占拠事件の際に、オグララ スー トライブの反評議会派の指導者たちは、1868年のスー条約には政府の組織形態は何も述べられていないから自治政府に対する権利はスー ネーションに保留されていると主張して、内務省長官に、IRA憲法の無効を問う住民投票の実施を求める1400名の署名付き請願に応えるように求めたのである(注2)。スー ネーションの旧来の政府は、IRA/BIAモデルの官僚的組織よりもはるかに純粋な民主主義を具現する政府形態であったとされている。請願は、無視されたり、拒否されたりしてきた。
 トライブ評議会の議長が行政府の長であり、トライブの行政官僚機構の運営責任者である。「議長(chair)」の他に、ナヴァホのように「プレジデント(president)」と称したり、後で登場するサンタ クララ プエブロのように「総督/知事(governor)」と称しているトライブもある。その下に行政官として、副議長、事務局長、財務担当官がいる。議長は、トライブの有権者による選挙や、評議会議員による選挙で選ばれ、大体4年の任期を務める。議長の重要な権限には、トライブの裁判官の選出も含まれている。
 トライブからのインプットがほとんどなしに作成されたIRA 憲法の下では、司法府を特別に新たに創ることはしなかった。司法府は、独立しているトライブもあるが、概して評議会に従属しており、権力の分立がない。
 伝統的制度の下では、インディアン トライブの指導者と統治機構の機能は、トライブ内の調和と均衡の維持に努めることであり、紛争が生じた際には平和的に解決するという調停が主であった。刑事事件における極端な刑として追放が要求されることもあったが、刑と被害者やその家族への償いを含めて、問題の解決には、「皆が許して忘れることができ、お互いに調和を保ってトライブ社会の中で生活し続けることができるよう」にすることが重要であった。インディアンの劣等性の主張に利用された「無法のインディアン」像とは反対に、不文慣習法に則って、現代のような形式的手続きにはほとんど従わない司法/正義(justice)が実践されていた。しかし、強制的同化政策の産物として、また「植民地主義の道具」として、内務省が1880年代初期に創設した「インディアン刑事裁判所(Courts of Indian Offences)」または「連邦規則法典裁判所(CFR courts)」と呼ばれる、技術的細目にこだわる非インディアン的な裁判所が、1900年までに3分の2の保留地に導入されていた。
 インディアン ニューディール以降、「伝統的」裁判所とCFR裁判所の双方ともに、IRA憲法に基づく裁判所に次第に取って代わられることとなったが、人材や資金不足のためにCFR裁判所をそのまま引き継いでいるトライブが21存在している。またその一方で、それ以前の「伝統的」な裁判所も、プエブロ、ナヴァホ、イロクォイなどで約20存続している。
 IRA憲法下の初期のトライブ裁判所では、オグララ スーの事例にも見られるように、BIAに対する無批判の忠誠を基準として判事、陪審員、検察、弁護人の役割を一人でこなす「一種のカンガルー式の裁判所システム」と揶揄される仕組みが存在していた。
 IRA憲法の下で画一化が進んだ裁判所ではあるが、トライブの政府組織の中で最も多様性に富むのは、現在でも裁判所と言われている。今日までの80年間に、トライブ裁判所が扱わねばならない問題は、数が増え、多様化し、複雑化し、その範囲は拡大してきた。インディアンのトライブおよび個人に関する問題は、トライブ、州、連邦政府のどの裁判所にも提出することができるが、その選択にはトライブの主権とインディアン個人の権利、そして連邦政府の介入の意味合いなどが複雑に絡み合ってくる。


●トライブの政治制度改革と経済戦略
 今日アメリカでは、WE の事例で見たように、IRA憲法の改定によって政治制度を変革しようとするトライブが増えつつある。カナダでも同様の動きが見られ、両国で約60のトライブが憲法の見直しを行っている。

(以下、注も含めて省略。)


出典:「インディアン トライブの自治と市民権剥奪②―インディアン再組織法(IRA)―」『先住民族の10年News』第202号、6-8ページ。

 IRAは、「インディアン」の「血の濃さ」による定義にも大きな問題がある。思えば、駆け出しの頃、それについて書いたことがあったなー。もう30年くらい前になるか。

さて、P/Kさん、これで1ついかがでしょう。

P.S.:別件で検索中に遭遇した3年前の今月の記事から:

大学は、ヘイザーが言及した『人間の倫理の』問題に対して責任を取るべきである。すなわち、いかにしてこれほど多くの立派な教育を受けた善意の教授たちや大学管理職員たちが熱心に死者の権利を侵害し、かつ生きている人々を苦しめたのかという問題である。

P.S. #2ここにP.S. #3を追加。

P.S. #3(11.07, 0:20):ここにP.S. #2を追加。