AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

アイヌ政策過程におけるマスメディア(新聞)⑤

 11月21日深夜に自分の保存用書庫に入れてそのままにしていたら、早いもので、もう2週間が経ってしまった。少し間が空いたのでもう一度記しておくが、ここで言及しているのは、「アイヌ政策への期待と課題は」と題された朝日新聞デジタル(11月5日)の記事である。(まだアクセス可能である。)

 本シリーズの③~④で見て来たように、11月5日の朝日新聞のこの記事は、バランスが取れているとは言い難い。この記事は、相対立する選択肢を示しているとは言えないし、現在の状況では、そもそも「有識者」とアイヌ協会の2者を並置すればバランスが取れるというものでもない。この記事は「両論」併記ではないし、また今は「両論」でも足りないのだ*1。従って、ここでのバランスは、あくまでも見せかけである。

 配置についても、既に指摘したように、常本氏が右側で「土地の返還」云々と言うのに対して、左側でアイヌが「広義の文化」の復興には土地・資源に対する権利は切り離せないと発言するインタビューが載るということは可能だっただろうか。政策室や常本氏は――常本氏がそれを理解しているとしても――、今日、決してそれを望まなかったであろう。

 今回は、記事を担当した記者が書いている言葉と「課題」への視点を取り上げておきたい。記者は、多くを語るスペースを自分に与えてはいない。それゆえ、このような形で論うのは不公平と言われるかもしれない。しかし、僅かな紙幅であるからこそ、何が「現実」であり「課題」として提起されているかが重要でもある。そして、ここに見られる問題は、過去に何度か言及した朝日新聞先住民族の「課題」への取り組み姿勢の限界*2と通底してもいる。

 記者はまず、リードの部分で次のように書いている。

 国のアイヌ政策が動き始めた。2020年に白老町で「民族共生象徴空間」が開館し、生活や教育の格差解消などを視野に「アイヌ新法」制定への検討も進む。今後の政策への期待と課題を聞いた。

 「アイヌ政策が動き始めた」という言い方には違和感を感じるが、重箱の隅をほじくってばかりの感じになるからやめておく。「開館」という表記も小さなことだし、既に取り上げたことであるが、「開館」という表現からも分かるように、記者自身には「民族共生象徴空間」の主体が国立アイヌ民族博物館や「慰霊施設」という建物であるという意識が刷り込まれているように見える。いつの政策推進作業部会だったかすぐには引っ張り出せないが、「象徴空間」の博物館ばかりを強調しないで、野外体験学習ゾーンのPRにもっと力を入れるべきだというような発言がされていた。記者は、その「有識者」――恐らく某大学の先生ではなかったかと思うが――に小言くらい言われたかもしれない。

 「アイヌ新法」と引用符を付ける意味は何か。北海道ウタリ協会の時代から北海道アイヌ協会が「アイヌ新法」と称してきた法律の「制定への検討」が進んでいるのだろうか。常本氏の発言からは、それは疑わしい。1997年制定の通称「アイヌ文化振興法」をマスメディアは「アイヌ新法」と称してきた。それによって、一部の――あるいは多くの――国民は、あたかも北海道ウタリ協会が1984年の総会で議決した「アイヌ新法(案)」が成立したかのような印象すら与えられた。最近は、次の「新法」が話題になっているせいか、「アイヌ文化振興法」を「アイヌ新法」と呼ぶ新聞記事はあまり目にしなくなった感がする。諸外国のように先住民族に関係する法律が数多く作られるようになった場合――今のところなりそうにもないが――、この国のメディアはどう対応するのやら。

 さらに、このリードで大事な部分として、「生活や教育の格差解消などを視野に」という「アイヌ新法」の射程の範囲(スコープ)が既定の事実として進められていることが述べられている。そして、記事にはまとめとして、4段落の「記者の視点」がある。そこで記者がこの既定の事実に批判的な目を向けている様子は窺えない。むしろ、「国の信用」を梃子とする常本氏のアプローチをもってしてもその目標すら危ういという印象を与えている。当然のことながら、「先住民族の権利実現を直ちに目指すのは、今のアイヌと日本の現実になじむでしょうか」という常本氏の発言は、議論の枠の外に置かれている。

 道内に暮らすアイヌの人たちは、どのくらいいるのか。関係機関に問い合わせると、必ず「把握できている限りでは」とことわりがつく。正確な数はアイヌの人たちにも把握できていない
 背景には、今も残る差別や偏見がある。素晴らしい文化を持つ先住民族でありながら、その立場を隠して生きなければならない悔しさや悲しみは、いかばかりか。
 長年の課題となっている生活向上や教育格差解消には、個人の特定が不可欠だ。様々な施策に「なぜアイヌだけ」との声が上がる現状では、それもままならない。
 先住民族として尊重し、真の課題解決を目指すなら、歴史教育や差別解消をこれまで以上に徹底する必要がある。今こそ腰を据えて取り組まねば、新法や民族共生の象徴空間も東京五輪パラリンピックに向けたパフォーマンスになりかねない。

 下線部①に対して、先に紹介したアイヌの知人は、「アイヌの人口も正確な数はアイヌの人たちも把握できていないなどと書き立てている。解らないのは、アイヌの責任なのか?」と、(常本氏の発言にカーッとなったせいもあって?)やや感情的と受け取られるかもしれない反応を書いてきた。責任云々は措くとして、次の段落から、恐らく記者は、アイヌであることを隠して生きなければならない人がいるために正確な数が把握できないということを伝えたかったのではないかと推測するが、少なくともこのアイヌの知人とその周囲の人々には上手く伝わらなかったようだ。しかし、考えてみれば、和人の人口だって、日本に居住する外国籍の人々の人口だって、「把握できている限りで」しか答えられないだろうし、それぞれの当事者にも「正確な数」は「把握できていない」だろう。わずか4段落しかないスペースのうちの1段落を費やすほどの意味があるとも思えない。

 下線部②について、これはアイヌ政策関連会議の「議事概要」などで初期の頃から話題に上がり、何度も目にしてきた言葉であるが、なぜ「個人の特定が不可欠」なのかをこそ説明して欲しい。それは、④で取り上げた落合氏が言及している「北海道旧土人保護法にもあったような」何らかの「給付施策」が想定されているからではないか。しかし、そこには、誰(どの組織)が「個人[を]特定」するのかという、常本氏が第3段落でサラリと否定しているアイヌ民族の自治という重要な課題が隠されており、「なぜアイヌだけ」という声――「社会の現実」――だけではない「課題」が含まれている。そもそも、政府機関や、その監視の下での一指定団体による「個人の特定」が今の最優先課題であるべきなのかも問われねばならないはずである。

 最後の段落は、これまでの対策が不十分であることを指摘してはいる。政府と「有識者」への注文と読めそうである。しかし、残念ながらわずか2文しかなく、記者の処方箋がどのようなものかは分かり難い。③は、想定されている「新法」では不十分だという指摘なのであろうか。「新法」だけでなく、「歴史教育や差別解消」に取り組まねば「課題解決」はないとの主張であろうか。しかし、「これまで以上に徹底」というのは、これまで取り組まれてきたかのような印象を読者に与えはしないだろうか。すなわち、それがこれまで行われてきたことをもっと徹底するという意味であれば、これまで政府は「歴史教育や差別解消」策といえることをほとんど何も行ってこなかったのではないかと問いたい。「多様な参画の確保方策検討部会」の共同座長の一人が示した歴史認識に見られるように、この国の歴史教育政策は貧困で、差別解消策もまともに取り組まれて来たとは言えまい*3

 下線部④である。「象徴空間」は、今でも既に「パフォーマンス」の要素は十分ある。これも既に書いたが、「象徴空間」を「扇の要」とする政策形成過程は五輪開催が決まる前から進められてきたのであり、元は「東京五輪パラリンピックに向けた」ものではない、五輪とは関係のないところで決まってきたことなのだ。そんなことはどうでも良いだろう。そもそも「象徴空間」を「扇の要」とする政策を、記者は何の異議も批判もなく受容しているのだろうか。

朝日新聞記者への期待
 『ウレシパ・チャランケ』No. 49(2015年7月), pp. 6-24に掲載された「人類学とインディアン-ヘイティング」において、ラッスル バーシュ氏は、ベトナム戦争時の「アメリカの人類学者たちの良心の大きな危機」に対してネイダーとゴフが「分析のレンズを無力な人々の悲惨ではなく、今日のグローバル社会における権力の機関に集中するようにと挑んだ」訴えが20世紀末においても留意されていない状況、逆立ちした人類学について論じながら、人類学を解放するための次の一歩として「スタディアップ」せよと提唱した。
 人類学者だけではない。同じことは、今日のアイヌ政策を報じるマスメディア(ここでの観察対象は主要新聞各紙)にも言えるのではないか。マスメディアや記者は、政府や「有識者」の有力者のお先棒を担ぐのではなく、「スタディアップ」せよと。なぜ取材対象を転換して、政策室の官僚や政治家の言動を報じないのか。アイヌ政策の構造を明らかにするような調査報道を目にした記憶がない。

 ここで取り上げた朝日新聞の記事も、「課題」は「社会」としているが、国交省文科省アイヌ総合政策室等々の官僚機構や政治行為者化した「有識者」集団、指定法人や公益法人によるアイヌ「文化」政策の「推進」という仕組みが「課題」などとは考えていないかのようである。ジャーナリズムとして掘り下げるべき課題の一つは、アイヌ文化振興レジームであり、国交省文科省の増え続けるアイヌ政策予算が、省庁・指定法人・公益法人の独占体制の間でシェアされる中で、どれだけ純粋に「アイヌの誇りある社会」の建設に使われているのかを明るみに出すことである。2008年の国会決議を境に、官僚的予算獲得術によって調査費名目の予算ばかりが膨れ、そこに研究者・機関や主に観光関連の企業が群がっている一方で、アイヌ政策の隠された原則は、時間をかけた緩やかな同化の推進である。「新法」によって「推進」されようとしている政策の下では、「象徴空間」に官僚と「有識者」集団による自分たちのための指定法人や財団法人をはじめとする公益法人――アイヌ文化振興・研究推進機構のような法人――がいくつか設立されて、国交省文科省アイヌ総合政策室や北大の研究センターなどからの天下り先が確保されるくらいではないだろうか。

*1:Cf. 「『アイヌ民族の自決権』はタブーまたはイレレヴァントになったのか」

*2:例えば、5年半前の「もの足りない『朝日新聞 Globe』特集、「文化財は誰のものか」」「2つの点は、線でつながるのだろうか」、そして2年半前の「1992年以前に逆戻り?」を参照されたい。

*3:政府や「有識者」は「格差」の根源に植民地主義や人種差別の社会構造があることを認めていないが、人種主義を「治療する」ための政策処方箋として最も受けの良い教育アプローチは、それが人種主義の再生産を個人の「信条」の論理的帰結として定義する限りにおいて、「真の課題解決」とはなり得そうにない。このことは、またいつか別の機会に取り上げられればと思う。