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AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

1788年ニューヨーク市の死者冒涜に対する暴動~解剖法の成立

 ③というより2.5という感じで少し脇道に逸れる感はあるが、UNDRIPとNAGPRAの話に行く前に、②でエコゥ-ホーク氏が例に出しているニューヨーク市民の死者に対する「反冒涜暴動」と「解剖諸法」について少し補足しておこうと思う――もっとも、その部分を読んだ人は僅かな数であるが。日本の、そして北海道の、初期の医学生たちが、どこから解剖のための死体を調達していたのだろうか、そしてそれが今日の日本の医学にどのように「貢献」してきたのだろうか、などの疑問が湧いてくる*1。既に研究書があるのかもしれないが、私はまだ読んだことがない。

 Willard A. Heapsという著者によるRiots USA 1765-1965 (New York: The Seabury Press, 1966)という、とても興味深い本がある。この本の第3章が、1788年4月13-14日のニューヨーク市における暴動を描いている。

★死体泥棒への復讐

 時は1788年――フランス革命、そしてクナシリ・メナシの戦いの前年――、場所はニューヨーク市、新たに独立した植民地の首都であり、憲法制定会議の1年後に新憲法が批准され、合衆国初代大統領がそこで就任式に臨むことになっていた。人口(もちろん先住アメリカ人を除く)は、2万5千人をわずかに超えていて、彼・彼女たちが住む家屋の数は3,000。「市」全体が、マリーが住んでいた五番街の端に位置するワシントン公園の南に存在していた。
 医学生たちは、唯一の医学部があったキングズ カレッジ(後のコロンビア カレッジ、そして現在のコロンビア大学)で教育を受けていた。当時、医者の職業を選択する者は今日のような専門大学院を卒業する必要はなく、学生たちはニューヨーク病院でリチャード ベイリーの単位なしの授業に出ていた。独立戦争後のニューヨーク市の解剖学の中心がこの病院で、ベイリーは有名なスコットランド人の解剖学者、ジョン ハンターの下で訓練を受けていて、標本博物館を設立して、実験室での人体解剖を指揮していた。
 当時、人の死体は、合法的に入手することはできなかったため、学生たちは、夜の闇に隠れて、近くの2つの墓地からこっそりと死体を盗んでいた。一つは"potter's field"という貧困者などのための共同墓地であり、もう一つは黒人墓地である。棺に入れられずに直に埋葬されていた遺体は、簡単に掘り出して持ち帰ることができた。医学生たちはそれぞれ、自分の解剖に使用するためだけに1体の死体を供給することを課されていた。そして、1788年の初期までに墓荒らし、あるいは当時一般的に知られていた「死体泥棒」が普通になっていて、学生たちは、より大胆になっていた。
 2月に、市で一番古いトリニティ教会の墓地から一つの集団が死体を盗んだ時、一般市民の憤りが高まった。その年の春中、医学生たちは、2つの週刊新聞で厳しく批判されていたにもかかわらず、自分たちの活動をしゃにむに続け、その間、市民の怒りは増大した。新聞の報道は無数の噂で誇張されており、誰もが18世紀前半のスコットランドイングランドで流行っていた墓荒らしの悲惨な詳細を思い出した*2
 地元民の苦々しさは増し、ついに4月13日のある不運でへまな出来事が、2日間にわたる「医者たちの暴動」、別名「反冒涜暴動」を突然引き起こしてしまった。
 その日曜日の午後は日が出ていて穏やかだった。何人かの医学生と医師たちが、ニューヨーク病院の実験室でベイリー医師の指導の下、死体を解剖していた。実験室は最近ペンキが塗装され、塗装工たちの梯子が下の地面に置かれていた。ペンキと、死体を保存していたホルムアルデヒド(防腐剤)の臭いを出すために、窓は開いていた。小さな少年たちが、下の芝生で遊んでいた。好奇心に導かれて、少年の一人が壁に梯子を立てかけて実験室の窓まで上り、覗き込んだ。学生たちは、他の好奇な覗き魔たちに悩まされ、苛立っていて、忍耐心が張り詰めていた。
 学生たちは一緒に、一人の女性の死体に取り組んでいた。そして、ある報告によれば、学生の一人がたまたまその瞬間に、窓枠にかけられた紐に片腕を乾かすために吊るした。別の報告では、ジョン ヒックスという医師兼学生が、その少年に死体の女性の腕を振って、脅かして退散させようとしたとなっている。3つ目の説明は、苛立ったヒックス医師が、機転が利かずにその腕を少年の面前で打ち振ると同時に、「これはお前の母さんの腕だ。梯子から降りないと、これでお前を打つぞ」とか、それに似たことを叫んだことになっていた。少年は恐ろしくなって一目散に家まで逃げ帰り、息を切らせて石工の父親に話をした。
 奇怪かつ100万回に1回の偶然で、たまたまその少年の母親は実際、数週間前に死んでいた。大いに取り乱した父親は、何人かの友人を寄せ集めて彼女の墓を訪れた。彼らにとって恐ろしいことに、棺が壊されて開けられていて、中は空っぽだった。
 憤慨した男たちは、急いで仲間の石工の一団を集めた。彼らは、自分たちの仕事の道具で武装した。衝撃的な報せは、繰り返されるたびに拡大され、野火の如く広がり、大勢の群衆が集まった。彼らがブロードウェイを進むにつれて、その数は、同情的で、刺激を受けた傍観者たちで膨れ上がった。病院内の医師たちと学生のほとんどは、前もって注意を受けていたので、群衆が建物の南そでの施錠された扉を押し開ける前に、逃げることができた。
 1,000人にも達していたかと思われる群衆は、建物に流れ込むと、最初に、輸入された解剖標本、国で最良の標本――骨格、体の異なる部位の骨、ガラス容器に入ったさまざまな化学的に保存された器官、蝋型、乾燥した、注入されたヒトの標本――の極上コレクションに出くわした。これらを彼らは粉々に打ち壊して完全に破壊した。
 同時に、群衆の一部は、解剖室に押し入った。いくつかの不完全に解剖された死体を見つけると、彼らは、復讐の罵りと誓いを叫びながら、「断片、頭、脚、腕、そして胴体をつかみ、それらを窓やドアから公衆の目に晒した」。外にいた見物人たちは、こうして等しい憤りへと刺激され、その憤りは、これらの死体の部分が外へ持ち出され、荷車に積まれて、確認と再埋葬のために運び去られる時、強さを増した。
 群衆の一部が、4人の学生が避難していた部屋のドアを壊した。しかし、学生たちは、ロバート ボイド保安官と数人の著名な市民とともにジェイムズ ドュエイン市長が折よく到着したことで救われた。群衆の非難のヤジと怒号が耳に響く中で、学生たちは野原を通って当時市役所公園にあった刑務所へ連れて行かれ、そこで彼らは、安全のために通常の守衛と数人の緊急召集された民兵の保護の下に置かれた。その他の学生のほとんどと市の医者の多くもまた、日曜の夜と翌朝、刑務所に避難場所を求めた。
 もしも市長の一行が事件が終息したと信じたなら、彼らは間違っていた。月曜の朝、群衆は、今度は水兵、浮浪者、犯罪者、そして雑多な策動家を含む新たな増援とともに、病院に集まった。彼らは、盗まれたと報じられていた他の死体を見つけるために、市の25人いたすべての医者の家を捜索する決意を固めていた。
 ジョークリントン知事とドュエイン市長は、状況の深刻さに気づいて、群衆に直接アピールする決心をした。「暴動法」を読み上げた後、彼らは、群衆に退散して暴力を用いないように説得しようと試みた。彼らは、すべての報告されている墓荒らしの完全な捜査を行い、罪を犯した者は法の下で罰すると約束した。これらのアピールと約束は群衆の一部には満足いくものに思え、彼らは退散した。
 しかし、大部分は、なだめられることを拒んだ。彼らは、行方不明の死体を自分たちで探し出したくて、捜索を始めた。キングズ カレッジの医学室への訪問では何も見つからなかった。群衆に同行していた知事と市長が各場所で自制を懇願し続けた一方、数人の医師の職場や家宅の個別捜索がより小さな集団によって行われ、彼らが外で待つ群衆に報告をした。しかし、捜索はまもなく、つまらなく且つやりがいがないとわかり、集団は次々に散っていった。
 今や医師たち自身が、集団の不満の標的となった。午後早く、約400人の市民が、中に閉じ込められている医師と学生に報復するという公然の目的で、市刑務所の外に集合した。大声で叫び、怒鳴りながら、彼らは「医者を連れ出せ! 医者を連れ出せ!」とリズミカルな叫びを始めた。彼らは、獲物が引き渡されなければ、3階建ての建物を取り壊すと脅した。
 すっかり不安を感じて、予定された犠牲者たちとその道連れの囚人、浮浪者、犯罪者たちは、ドアと窓にバリケードを築いて、手に入る武器で武装した。ボイド保安官は群衆に注意しようとしたが、彼らにとって彼は関係なく、群衆は大声で要求を叫び続けた。
 当局は、示威が今や不可欠と感じた。市はその当時、状況に対処するに足る数の警察官を保有していなかったため、小さな軍隊が急いで組織された。午後3時までに、18人の分遣隊がブロードウェイを行進してきた。予想外に、刑務所の群衆は、あざけり、罵り、嘲笑とともに、彼らに泥や石を浴びせる一方で、彼らを入口まで通過させた。しかし、兵士たちは、くるりと向きを変え、行進して去ってしまった。彼らの意図は、明らかに、群衆を威圧して暴力を防ぐことだった。
 半時間後、別の12人の小さな部隊が、刑務所に派遣された。その少人数の隊が行進して来ると、群衆は、突然、賑やかな高笑いを始めて、彼らを出迎えに突進した。「彼らの周りに蜂のように群がって、群衆は、彼らのマスケット銃をひったくって、それらを舗道の上でバラバラに壊した。」兵士たちは、総退却して敗走した。
 この公然の抵抗行動の最初の成功が、暴徒をさらにもっと興奮させた。「刑務所へ! 刑務所へ!」という叫びの真っ最中に、群衆は、既に推定5千人に膨れ上がっていたが、ドアに突撃して蝶番をはずして中に押し入ろうと決意した。重いボルトとかんぬきは、その猛襲に持ちこたえた。
 石で窓を打ち壊して数人の襲撃者がそこから入ろうとしたが、彼らは、中の少数の男たちに撃退された。阻止された襲撃者たちは、今度は棒杭で武装し――刑務所から数ブロック内のあらゆる垣根が壊されて群衆の武器となった――、そしてその武器を持って進むと、窓を取り除くための無鉄砲な試みを再開した。しかし、中にいる者たちは、彼らを跳ね返した。一人の男は、壊れた窓を潜り抜けた際に、銃剣で突かれた。戦いは、わめき声や叫び声、紛れもない騒ぎのような騒音の真っ只中で、夕暮れまで続いた。
 ドュエイン市長は既に群衆を散らすために根幹の対策が緊急に必要だと認識していて、クリントン知事は今や、民兵を召集することで合意した。しかし、わずかに50人しか集めることができなかった。残りの者は、群衆の中にいた。
 そこで、誰でも手が空いている有経験の兵士たちを寄せ集めることが必要になった。そして、この者たちに、武力に威信を貸して群衆を効果的に説きつけるかもしれない著名な市民が加わった。剣やこん棒で武装した志願者の中には、ジョン ジェイ『フェデラリスト』論文の彼の半分を書き上げたばかりのアレグザンダー ハミルトン、そして、大陸(植民地)軍の組織に多大な貢献をしていた退役後のフリードリッヒ フォン シュトイベン男爵がいた。

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 部隊が刑務所まで移動した時には、夜の帳が下りていた。「目で見ることができる限り、通りを埋めた暗く波打つ大きなかたまりの上を彼らが着実に行進する際に、ほの暗い星明りの中で彼らの銃剣がほのかに光っているのが見えた」と新聞の記事には書かれていた。その一隊は待っている群衆に近づいたが、群衆は、兵士たちが「刑務所の扉から10歩以内」に来るまで行動を起こさなかった。それから、民兵は発砲しないか、しても頭上に発砲するかの命令を受けていると信じていたため、群衆は、反抗の叫び声を上げながら、レンガの欠片、石、そして棒きれを投げ始めた。
 申し合わせた攻撃によって、その文民集団の中の数人が打ち倒され、ひどいケガを負った。ジェイは、彼の乗り物の中に投げ込まれたレンガで重傷を負い、後に震盪で10日間寝込んだ。ハミルトンには石が当たり、ドュエイン市長は、頭を殴られ、打ち倒され、踏みつけられた。
 フォン シュトイベン男爵は、やかましい騒音の上からクリントン知事に大声で叫びながら、彼に暴動を武器で鎮圧しないようにしきりに促している最中に、良く狙いを定めて非常に強い力で投げられた敷石が額に当たって、倒れた。彼の態度は変わった。血を流しながら通りに倒れた時、彼は大声で叫んだ。「撃て、知事、撃て!」
 その司令官は、「構え・・・狙え・・・撃て!」と即座に命令を叫んだ。群衆は、この近くからの直射の一斉射撃を予期していなかった。5人の暴徒が死んで倒れ、7、8人が傷ついて舗道に崩れ落ちると、群衆は、驚きとためらいで立ち止まった。
 群衆が散るかどうかを待って見ないで、司令官は、もう一回命令を下した。仲間のもっと多くが倒れるにつれ、暴徒たちは、衝撃で慌てふためいてほとんど停止状態で長い間じっと立っていたが、それから兵士たちに向かって前進し、彼らを力で後退させた。刑務所の中の武装した守衛、兵士、そして文民は、今や窓から彼らのマスケット銃を撃ち始め、取り囲まれた兵士たちの危険な状況を増大させた。兵士たちの3人が、この銃撃や暴徒の飛び道具で死亡した。兵士たちは、セント ポール教会に達するまでブロードウェイを下って後退し続ける間、今度は銃剣を付けて暴徒を近寄らせなかった。その教会で兵士たちは向きを変えて再び群衆に突撃し、その何人かをサーベルの背で殴り、教会構内の埋葬地に群衆を追い込み、そしてついに、彼らを分散させることに成功した。
 刑務所の前に残っている群衆は今やバラバラに散って四方八方に逃げ、通りと墓地から数分のうちにいなくなった。けが人は手当され、死者は運び去られ、軍隊が刑務所を夜通し警護した。
 午後の騒乱に刑務所の暴徒が没頭している間に、他のもっと小さな複数の集団が市内に残っている数人の医師と医学生たちを威嚇しにかかった。医師たちは、「窓から抜け出して、豆樽の下を這い、屋上へ逃げ、煙突を這い上がり、そして羽根入りベッドの後ろに隠れる」ことを余儀なくされた。保安官の保護の申し出を受け入れなかった者たちは、密閉型馬車で市から逃げた。
 捜索隊が死体を見つけられなかった時、妨害された数人が医師の職場や家宅の備品と家具を打ち壊した。
 示威を続けることで秩序を維持する目的で、周辺の田舎にいた州の複数の民兵隊が整列して市内に行進するように命じられた。歩兵の一隊と砲兵隊の大群の2つの分遣隊が応じた。通りを行進するこれらの部隊の光景は、暴徒の形成を阻止した。多数の人々が刑務所の前に集まって、血に染まった舗道をぞっとしながら見ていた。彼らは、外に駐在している兵士たちを罵り、脅したが、兵士たちは、直立不動の姿勢で、いかなる暴力の企図または治安妨害にも発砲する用意をしっかりして、静かに立っていた。
 その日の後ほどにすべての民兵分遣隊が総出で行進して行なわれた正装のパレードが、残るいかなる暴動の精神も鎮めるのに役立った。それでも、同市は数日間、興奮で騒然としていて、平穏が軍隊の恐怖だけで保たれていることは明白だった。医者、教師、そして学生が、その悲劇的な騒乱の原因だとなおも考えられていた。解剖を行っていると怪しまれたり、知られている者たちは、墓泥棒について自分たちの潔白を主張し始めた。これを彼らは、誰もかれもが皆、その不幸な出来事を遺憾に思い、そして自分たちの研究に盗まれた遺体を使用していなかったと公言する有料広告を新聞に差し込むことで行った。
 騒乱を取り調べるために2日以内に召集された大陪審への申し立てで、ドュエイン市長は、死体泥棒を強く非難して、彼らの処罰を迫ることを約束した。彼はまた、「すべての統治と安全のまさに基礎を狙い打つ犯罪――暴動と暴力へと突入し、そしてしつこく続けて流血を引き起こしさえしたこと」に対して市民も強く非難した。
 大陪審の取り調べは、誰も法廷によって処罰されなかったけれども、医師と学生たちに対する不利益という結果になった。ニューヨーク病院の理事会は、その運命の日曜午後に解剖室にいたすべての者を職員は解雇し、学生は自治会から放逐して、各犯罪者に対して22ポンド7シリング10ペンス、今日の合計20ドルの購買力に等しい*3、個々の罰金を課した。
 ニューヨーク市の「医師たちの暴動」の結果、解剖研究を援助する初のアメリカの法律が、1788-89年の冬と春のニューヨーク州上院と下院の第12会期中に成立した。この法律は、裁判所が殺人、放火、押し入り強盗の事件の死刑に解剖を付け加えることを合法とした。したがって、「合法的な」解剖用死体の限られた供給が得られた。1789年のこれらの「解剖諸法」は、解剖を法的に認可するとともに、墓泥棒に対する罰を具体的に明文化した。
 1790年に合衆国の第1回議会が、前年のニューヨーク州の法律に類似した法律を成立させた。しかしながら、個々の州の医師や教員たちはなおも十分な死体を合法的に確保することに多大な困難に直面し、死体売買が田舎の地域ではゆうに1800年代に入っても続いた。しかし、もっと現代の時代には、公共の啓発が、強い反解剖の敵対にもかかわらず、合法的供給を十二分にしてきた。


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1882年のHarpers誌に掲載された「邪魔された解剖」という題名のイラストである。Source: "The Gory New York City Riot that Shaped American Medicine". これは、Smithonian.comの2014年のオンライン記事で、この暴動を論じている。これには、「医者たちの暴動」が始まったのは4月16日となっていて、死者20人とある。
 また、2015年7月13日にForbes誌の科学欄に掲載された「いかにして墓荒らしと医学生が19世紀の黒人と貧困者の人間性の剥奪に手を貸したか」と題する記事。"How Grave Robbers And Medical Students Helped Dehumanize 19th Century Blacks And The Poor".

P.S.(01.17, 23:55):「報告書(案)」へのパブリック コメントの締め切りまで、あと1日となった。プライベート コメントを③④⑤とここに書いて、それらのURLsだけを記入して提出すれば1,000字以内に納まるだろうとか冗談半分に考えたりしていたが、当面、③以降を急ぐ必要もなくなった。

 さて、この記事も、このままだと脇道へ逸れたままになりそうだから(第3章は19~29ページであるが、現在、24ページの約半分、つまり全体の半分辺りである)、そろそろこの辺で止めて本題に戻る方が良さそうだが、それ以前に、2つ前の②からnoteへ移動した人の数を見ると、ここのビュー数と読者の関心度に対する考え方を変えなければならないみたいでもある。

 ところで、『大転換』はカール ポラニーの著書であるが、今週末、アメリカと北海道で「大転換」が起こりそうである。アメリカというのはトランプ大統領の就任式(20日、日本時間21日)のことであるが、さてさて、北海道で起こるのは?⇒コレ!(「大転換」とはちょっと大袈裟かな。)

P.S. #2(01.19):脇道へ逸れてしまったドン キホーテは、そのまま帰らなくなりました・・・なんてことになりそう。サンチョ パンザ氏も、先週末の寒波で風邪でも引いてしまったのだろうか。

P.S. #3(01.20):記事の題名を「NAGPRA, UNDRIP, そしてアイヌ遺骨・副葬品③――死体泥棒への復讐」から「1788年ニューヨーク市の死者冒涜に対する暴動~解剖法の成立」に変更して、この記事(「NAGPRAという鏡」)の末尾にnote投稿から関連の2段落を転載した。

P.S. #4(01.21, 0:40):この記事は、1本としてはこれまでで最長のものとなるのだろうか。一定数のアクセスがある間続けようと考えて書いてきたら、とうとう最後まで来てしまった。しかし、読者の訪問の関心はまったく別のところ――明日(もう今日)の北海道アイヌ協会のシンポジウムに関する発言――にあるということも無きにしも非ずであるが、少数を除いてほとんどが無言の読者だから分からない。
 昨日、ある読者が、1月19日付の毎日新聞に掲載された加藤理事長のインタビュー記事をpdfファイルにして送って下さった。残念ながら、そのまま画像コピーで貼り込めない形式のファイルのようで、ここに全文を掲示できない*4
 この記事はまた、明日の行事への布石なのかもしれない。それにしても、毎回同じようなものばかりが出て来るという印象であるが、担当記者には、インタビューに当たって突っ込んだ質問はしないという条件でも付けられていたのだろうかと考えたくなるのである。
 入力が面倒なので、1つだけ取り上げる。3段目の最終段落に、「遺骨を返せば終わりではありません」とあって、次のように続く。

遺骨を収集した経緯や、遺骨を使ってどのような研究をしたのかを明らかにし、今後の研究のあり方を含めてアイヌにきちんと還元してもらいたい。

 白老が地元の加藤氏にとっては「集約」=「返還」となるのかもしれないが、そもそも「返還」とは、遺骨の扱いについてコントロールできること、決定権を確保することが前提となるはずである。「慰霊と研究」施設への「集約」後でさえ、それが得られていないのではないですか。「今後の研究のあり方を含めて・・・還元」という意味が理解できません。確かに「返せば終わり」ではないでしょうが、「集約」のその先に「研究のあり方」が暗黙裡に受け入れられているのですね。「過去の事実を謙虚に見つめ、悲しい教訓から」何を「学ぶ」というのでしょう。むしろ、「集約すれば終わり」ではないのではないでしょうか。真の意味での「アイヌの墳墓保護および遺骨・副葬品返還のための法律」を政府に求めようというお気持ちはないのでしょうか。

P.S. #5(1.21):終わって一息。脇道へ逸れたまま帰らないとすれば、「フェデラリスト」が出て来たついでにマディソンの政治論へと進みたいという誘惑に駆られている。

 お薦め⇒ Frances Fox Piven, "Throw Sand in the Gears of Everything": When it comes to stopping Trump, petitions aren’t going to do it.

P.S. #6(1.21, 14:45):さすがに今日は、ここまでのアクセスが少ない。ちょうど少し前に北海道アイヌ協会行事の「記念報告」が終わった頃か。今あらためてプログラムを見直すと、1時間半で3人の報告+質疑・応答をこなすことになっていたようだが、どうしていつも、もっとゆったりとした企画にならないのだろう。そんなに「現代的」で急からしいプログラムにするのなら、もっと現代的にインターネット中継でもしてくれると、「国民の理解」のためにも良いだろうに。

トランプ新大統領の就任演説 全文と和訳.

The time for empty talk is over.
空虚なお話の時間はもう終わりです。
Now arrives the hour of action.
行動の時がやってきました。

 この演説そのものが空虚だ。Piven教授の言う通り、トランプ大統領を止めるには、陳情ではだめなのだ。え? アイヌ政策も同じだって?
 書きたい感想は多々あるが、テレビをはじめ、各種メディアで識者があれこれ言っているだろうし、時間もなくなったからやめておく。

*1:P.S.:昨夜ここを書きながら、この記事のことを思い出していた。この問題に極めて強い関心をもっていて、私に教えてくれた方がいたが、その後、何か見つけることはできたのだろうか。

*2:「礼拝所及び墳墓に関する罪」に英国の状況への言及がある。

*3:「今日」というのは、この本が書かれた1960年代半ばのことである。

*4:全文は、ここで読めるようです。