AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

上の写真:ジュネーヴのサン-ピエール大聖堂からレマン湖を望む。

『痛みのペンリウク 囚われのアイヌ人骨』を読んで(1)

 北海道大学アイヌ遺骨等返還室に言及したこの記事で、土橋芳美『痛みのペンリウク 囚われのアイヌ人骨』(浦安市:草風館、2017年、151 pp.)に言及した。それから約1週間後、ありがたいことに、あるお方から同書が送/贈られてきた――ちゃんと読んで書けという意味も込められていたかもしれないが。ちょうど1カ月後、予定していたことが途切れた先月末に読んだ。

一九八二年の段階で
ウタリ協会が
全部の遺骨を
一ヶ所に集め
慰霊をする場を設け
協会が管理したいと申したな
真っ当な申し出で
わしは期待したさ
その時の北大の弁が
次のようなものだったな

ということで、次のように『北海道大学医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書』(「収蔵」!)からの引用が挿まれている。

「人体骨は学術研究用として貴重なものであり、是非とも大学で保管させてほしいことを懇請する。これが難しいとなれば資料館のようなものを建て、アイヌ民族の方々は供養ができ、大学側は学術研究ができ、双方の希望に沿うようにする方法、又、遺族が明らかとなった場合とか、地域が明確になり、ウタリ協会が責任をもっての返還要求があれば、返還せざるを得ない。」

そして続く。

その妥協案の結果が
アイヌ納骨堂」という看板のある
「保存庫」だったのだ
ウタリ協会とやらはこのとき
なぜもう少し頑張ってくれなかったのか
わしは残念でならぬ
(略)

(ここまでpp. 60-62)

遺族が自由に出入り
できない
納骨堂など聞いたこともないわ
これが建てられたときの
工事名は
北海道大学医学部標本保存庫」
そうなのだ
慰霊せよとのアイヌの抗議に対して
やむなく建てた
「標本保存庫」なのだ
まさか
そうも看板をかけられないから
アイヌ納骨堂」と小さく
書いた二枚看板
(略)(pp. 109-110)

 北大の「アイヌ納骨堂」を「民族共生の象徴となる空間」に建設予定の「慰霊(と研究)施設」に置き換えると、改めて、現在進められていることが35年前の出来事の拡大版に見えてくる。「双方の希望に沿うようにする方法」、すなわち常本氏の唱える利益一致論である。北海道アイヌ協会は、1990年代以降の国際的な動向を読み誤ったのではないだろうか。

謎の民族よ
滅びの民よと
まるで滅亡が
約束ごとのように言われ
やれ
「研究」だ
「調査」だと
うるさくつきまとわれ
死してもなお
「貴重な標本」として
故郷の土にも
戻れない(p. 112)

ピラトリに
ピラトリの土に
戻してくれれば
それでよい(p. 82)

 「詩」の部分(「痛みのペンリウク」、pp. 9-114)を読みながら、過去に書いた1組の記事をずっと思い出していた。1つは、内容はもちろん異なるのだが、Wendy Rose(ウェンディ ロゥズ)さんの詩を紹介した5年前のこの記事である。(もう1つ、翻訳はしていないが、この記事でも彼女の詩を取り上げている。)

 後ろの「ペンリウクの遺骨について」(pp. 115-149)は(2)で取り上げるつもりでいるが、これを読んだ時には別の2組の過去の記事を思い出した。もう6年半前になる「シッティング・ブルの遺骨をめぐって」と同日の「シッティング・ブルのスピリット」と題した記事であり(因みに、ここで登場しているエスケ ウィラースレヴ氏とは、この人である。デンマーク語では、エシュケ ウィラースレフと発音されるみたいである。)、そして、「NAGPRA, UNDRIP, そしてアイヌ遺骨・副葬品の返還②――NAGPRAという鏡(rev.)」に収めていた「NAGPRAという鏡」の表示していない続き部分である。(表示部分の続きとして、直接的関係のない段落も含めて公開することにする。下線による強調は、追加である。「NAGPRAの鏡」は、これで全部ではない。)

 学術機関がこの問題に関する自省を奨励することが大事であり、そして、もっと一般的に、先住アメリカ人コミュニティとの全般的関係の現状を内部精査する進行中の過程を推進する必要がある。NAGPRAという鏡の中に私たちが見る像は、公衆の善意に支持を依存している機関にとって喜ばしくないかもしれないが、洗練された対社会関係イメージを越えて知的誠実さにすすんで望みをかける機関に対して、善意は決して不足することはないはずである。ロバート ビーダー、オーラン スヴィンゲン、そしてジェィムズ ライディング インのような歴史学者は、インディアンの遺骨に対する学術的関心の歴史を調査してきており、そのような調査研究は、この自省過程において極めて重要な役割を演じ続けることができる。
 例えば、ニューヨークにおいて、アメリカ自然史博物館は、NAGPRAの鏡について熟考する大事な機会を私たちに提供してくれる。同博物館は最近、グリーンランドエスキモーのクィスク(Qisuk)の遺骸を再埋葬できるようにした。ケン ハーパーが、1世紀前のクィスクの死に関する説得力のある報告を書き、彼の若き息子、ミニクに対して行なわれた欺瞞を描写した。ミニクのために、自然史博物館の職員は、クィスクを埋葬するとうそぶいたが、実際には彼の遺骨を科学のために保持した。1993年のクィスクの埋葬で、変化の重要な兆候が自然史博物館から現れた。この博物館の業績のより幅広い実像を再吟味する際、私たちは公共教育を通してアメリカ人の生活の質にとても多くを貢献してきたこの博物館に誇りを持つべきであるが、この誇りは責任(アカウンタビリティ)を当然のこととして期待するべきであり、そしてそれは、正確な自省が将来の学界の議題を設定する基盤を提供することの方を好むべきである。NAGPRAの下では、クィスクとミニクの物語が繰り返される確率はほとんど存在しない。
 コロラド州では、合衆国の支配権を確立し維持するための探究が、生きているインディアンと死んだインディアンの両方に影響を及ぼした。100年前、1897年7月に、M. E. クラウリーさんという名の女性が、州の歴史・自然史協会――今日のコロラド歴史協会の前身――を訪れて、かなり身の毛のよだつ寄贈を行った。その物体に付されていた札には、その寄贈物が「1885年にコロラド州の西部の斜面で殺されたユートゥ(Ute)女性の頭骨」と記録されていた。
 NAGPRAが命令する調査は、同法がなければ決して語られることがなかったかもしれない悲劇の物語を語る。1885年6月に、コロラド州ドローレスの近くでキャンプしていたユートゥの2家族が、ビーヴァー クリークの虐殺として知られる事件で地元の白人たちに襲われた。そして、残忍なクラウリーさんに収集された頭骨は、挑発なく行われたこの殺りくの犠牲者の一人のものであったということが十分に考えられる。コロラド歴史協会の創設の父たちにとって、この寄贈は科学への貢献を意味した。彼らには、インディアンとパートナーシップを作り上げる気持ちをまったく反映しない目的意識があった。事実、当時の白人のコロラド人の大多数にとって、インディアンの人々は、単に、克服し、強制退去させ、支配するべき障害物であった。生きているインディアンを白人入植者の都合のために支配するという考えから、死んだインディアンを科学と学問の都合のために支配するという考えへの、小さな一跳びであった。
 そのユートゥ人頭骨は、1981年にコロラド大学の自然人類学博士候補生のジェイムズ ハマートによって調べられ、彼はその頭骨が「およそ12歳の子ども」のものであると結論した。ハマートの研究プロジェクトの状況は、最終的にNAGPRAの必要性を生起させた学界の態度について多くを明らかにしている。「マイノリティの政治行動主義」と名付けられたものに対応して、CHS(コロラド歴史協会)は、学者たちにとってのこのコレクションの意義を強調するために彼・彼女たちの遺骨の研究に資金を提供し、ハマートがこの研究を行うために雇われた。その契約は、そのプロジェクトが「やっかいな活動家の活動」を引き付けるだろうという恐れのために、意図的に広告されないプロジェクトとして準備された。
 ハマートは、遺骨のコレクションは「教育的および研究的な潜在性」という点で偉大な価値を有すると彼の最終報告書に書いた。皮肉なことに――その研究の秘密主義的な性格を考慮するとであるが――彼は、骨の研究はいつの日にかインディアンの人々に真価を認められるかもしれないという希望も提示していた。実際、彼の研究は、NAGPRAに要求される報告書を作成する際に、CHSにとって極めて役に立つものであった。それでもなお、ミニクの物語と同じように、この研究の実施は、合衆国の学術界が、便宜上、生きているインディアンを積極的に排除する自由を感じてきたという事実を強調している。

 ここまではまだ記事題名に見合う内容はほとんどないが、リンク先まで読んでくれる人にはかなり長くなったし、この感想文自体も(最後まで書ければ)長くなりそうなので、一旦ここで切ることにする。