AINU POLICY WATCH

――In Light of the U.N. Declaration on the Rights of Indigenous Peoples――

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1964年のケンブリッジ調査隊によるアイヌ血液採取と東大研究者による1970年の公刊論文のためのアイヌ血液採取(rev.)

 「清水少年の血液」の記事と関連して、あと2件の調査について投稿しておく。

 一つは、前に取り上げたことがある1964年のケンブリッジ調査隊による日高地方の調査である。大英博物館のR. G. HarveyとD. R. Brothwellが、アイヌの多毛性の研究("Biosocial Aspects of Ainu Hirsuteness")としてJournal of Biosocial Science(1969年)に論文を公刊している。
 調査地には下線が引かれている。
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 調査地と被験者の数。
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 村役場などで全部で8回の調査が行われたが、美幌や阿寒でも行われている。
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 「謝辞」から、日本の関係者の部分を引用する。北海道大学東京大学国際基督教大学の研究者、そして北海道庁の「代表者」が挙がっている。
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 もう一つは、検索するとこのブログでも3度登場している三沢章吾氏の共著論文である。*1
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 この研究調査では、すべての血液標本が新冠で採取されている。清水氏の話でもそうであるが、この種の調査には子どもを対象とする傾向があるようで、5つの村の47人の大人に加えて、4つの中学校の61人の生徒から血液標本が採取されている。この108人のうち40人が「相対的に純血のアイヌ」とされている! なお、対照群として同じ地域から355人の和人の血液も採取されていることにも注目する必要がある。
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 調査対象者の確認は、当時はまだ閲覧可能だった戸籍(the official family record)、インタビュー、村の年寄りと学校の教師からの情報によって行われている。
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 最後に、協力者と研究資金提供者への謝辞である。静内の加藤病院(現在の静仁会静内病院?)の加藤三郎医師の実験における協力、新冠と静内の教育委員会職員の血液標本収集のための調整への感謝が述べられている。また、両著者が東京医科歯科大にいた頃からこの研究は続けられているとのことである。
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 論文の最後に日本語の要約が付されているので、それも引用しておこう。
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 この投稿では論じないが、私の関心は、これらの血液標本がどのようにして(誰がどのように関わって)採取されたのかということのみならず、その後それらの標本がどうなっているのかという問題である。そして、これは、上述のように、アイヌだけではなく、同じように採取された和人の血液についても言えることである。この続きは、またいつか先で書くことにする。

P.S. (2018.04.29):2つ前の投稿の後半で引用している論文は、北大の流し台タンクの職員たちには周知のことと思うが、まずは、この「科学的」な研究調査の土台となっていたアイヌ民族に関する当時の認識を示している箇所をこの論文にアクセスできない/読めない読者のために紹介しておく。
 論文では、血液型との関連でアイヌアイヌ-日本人の8つの遺伝的特徴を取り扱うという説明の後に、この集団(population)を「綿密に研究してきた」共同研究者の一人(S. K.=児玉作左衛門)によるアイヌ人(the Ainu)に関する解説が、48ページ半ば~52ページ半ばまで3ページにわたって*2展開されている*3。彼の「名声」が当時、こうした認識を世界に広めることに寄与したことは間違いないであろう*4。以下、段落ごとに翻訳または要約する。
 ・・・と、ここまで書いてきたのだが、いやはやあまりにも内容が酷すぎてやめることにした。ゴメン。

P.S. #2(2018.04.29, 21:36):大きく歴史が転換しようとしている。ブログの初期のどこかに書いたと思うけれど、私の卒論の主題は朝鮮戦争の開戦だった。今ようやく終わろうとしていると思うと、とても感慨深い。その私が何で、先住民族の人体組織試料の問題をここで論じているのだろうね。その道の専門家や「アイヌ・先住民研究」を生業にしている人間が数多いるというのに。

 もう少し早くこの問題を取り上げていたら、今ごろ、血液やその他の人体組織の「慰霊施設」も計画されていて、土地開発・建設産業が喜んでいたのかもしれない。(いや、過去記事でも分かるように、早くから取り上げていたのだ。)

 私の替え歌の才能を認めてくれたアイヌのおばさんがいるのだが、Google Analyticsを使い始めて、海外からの読者が増えていることを知ってから、どうも替え歌で遊ぶという気になれなくなってしまった。だが、この替え歌はアメリカの医学史研究者が気に入ってくれていたから、この機会にもう一度リンクしておこう(➡ここ)。何とか替え歌賞のようなものが何か届かないかな。

P.S. #3(2018.04.29, 22:30):今日はツイッター経由のアクセスが増えていると思ったら、なるほど!

P.S. #4(2018.04.30):脚注1を追加した。

P.S. #5(2018.05.01, 0:43):「アイヌの遺骨と血液の研究における類似の課題」に続けていた「先住民の血液と男児たちを収集したノーベル賞科学者」の投稿を再公開した。
 なお、この記事の標題をなぜ前後同じ形にしていないかというと、後者の論文を急いで見直した際に、調査の年(月日)が前者のように詳しく記されていなかったからである。(目を凝らして読み直せば、どこかに潜んでいるかもしれないが。)

P.S. #6(2018.05.01,1:24):過去の記事でも分かるように、三沢氏らの背後には尾本惠一氏がおり、彼らはまた「国際生物学事業」という国際的なプロジェクトに参加していた。それには、世界中の「未開人」が消えゆく前に、その遺伝的標本を収集しておくという目的があった。今日のようにDNA分析が本格化する前に世界中の「未開人」の共同体で血液を採取して回った遺伝(人類)学者たちは、自分たちの評判が悪くなると、現地の人々と親しかったり、良く知っている(文化)人類学者やその「未開人」の言語に通じている言語学者たちを案内人として同行させた。さらには、血液を採取するさまざまな「手順」や「方策」——そのうちにもう少し詳しく書くつもりではあるが——があった。この記事からも分かるように、この国でもただ単に血液を採取して回った「地元の和人研究者」だけがその責任を問われるべきとして片付けられる問題ではない。

*1:Cf. 参加同意撤回の権利―ヘルシンキ宣言/尾本惠市「先住民族と人権」Japanese “Gene Hunters”(日本の「遺伝子ハンターたち」)「アイヌ人骨・副葬品に係る調査研究の在り方」(その4)

*2:50ページには児玉作左衛門が1912年に撮影した北見地方の"Chieftain"(当時は「酋長」と呼ばれていたであろう)、57歳の男性アイヌの写真が掲載されている。

*3:但し、そのうちの約1ページは、1947年のThe Encyclopaedia Britannicaからの転載である。

*4:これについては、後でもう少し補足する。

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